八王の乱後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 00:10 UTC 版)
八王の乱の際、諸王は異民族の傭兵を戦場に投入した。一見磐石に思えた晋の急速な弱体化は、内乱に参加した異民族に独立への野心を与えることとなる。やがて、それは八王の乱中の304年における匈奴の劉淵の漢(前趙)の建国へとつながり、中国全土を巻き込む内乱(永嘉の乱)へと発展していった(八王の乱の終盤は永嘉の乱が同時に進行しているが、八王の乱に明け暮れる西晋はこれに対処する術をもたなかった)。 そんな折の311年3月、前述のように懐帝と司馬越が対立し、懐帝はもっぱら司馬越を討とうとしていた。そして司馬越の討伐命令が出され、逃亡先で司馬越が病死したことは漢軍を勢いづかせ、石勒は司馬越亡き後の西晋軍を攻めて大勝し、その将士10余万を捕殺するという大戦果を挙げた。これにより西晋は抵抗力と統治力を完全に失い、司馬越の死からわずか3カ月後の6月に洛陽は陥落した。懐帝は漢の都の平陽(現在の山西省臨汾市堯都区)に連行された後の313年1月に処刑され、懐帝の甥の愍帝が長安で残党により313年4月擁立されるも、この政権は長安周辺だけを支配するだけの地方政権でしかなく、全国政権だった西晋は洛陽陥落により事実上死に体となった。 愍帝も316年11月に漢の劉曜に攻撃されて投降し、平陽に拉致されて317年12月に殺されて完全に西晋は滅亡した。こうして時代は五胡十六国時代へと突入していく。 司馬懿の四男である司馬伷の孫にあたる琅邪王司馬睿は、恵帝が即位した290年に15歳の若さで王位を継いだばかりで八王の乱に深く関わることなく、司馬越と司馬穎の争いの混乱に乗じて封国の琅邪に帰還すると、司馬越から安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられたのを口実に江南の建業に駐屯していた。西晋が滅亡した時点で江南には五王が滞在していた(五馬渡江)が、丞相・大都督・中外諸軍事に任じられて江南の平定にあたっていた司馬睿が新しい皇帝に擁立された(東晋)。 一方、丞相・大都督・陝西諸軍事に任じられて西方の平定にあたっていた南陽王司馬保(父である司馬模は洛陽の陥落直後に劉曜が一時長安を占領した際に殺害されていた)は長安の西にある上邽に駐屯していた。西晋の滅亡後、司馬睿の即位を認めずに自ら晋王を称して皇帝に即位する動きを見せたが、320年には配下の裏切りによって殺害されてその勢力は崩壊、華北における晋の皇族は事実上消滅した。
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