文帝の宰相としてとは? わかりやすく解説

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文帝の宰相として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 04:00 UTC 版)

高熲」の記事における「文帝の宰相として」の解説

幼くして聡明度量があり、史書広く読み弁舌応対巧みであった17歳のとき、北周斉王宇文憲記室参軍となる。武帝時期に、父の高賓武陽県伯を継いで内史上士となり、まもなく下大夫任じられた。武帝北斉滅ぼした時に功績をあげて開府拝した。ついで越王宇文盛に従って汾州起きた異民族の反乱鎮圧した。 随国公楊堅(後の隋の文帝)は北周実権を握ると、高熲有能で誠実であり、計略優れていることから、彼を自らの幕下招き入れ相府司録として重用した580年尉遅迥が鄴で反乱を起こすと、楊堅韋孝寛総大将として討伐に向かわせたが、諸将意見一致せず、軍は河陽に至ると沁水はさんで敵と対峙したまま進軍しなかった。高熲は自ら願い出て軍中赴いた着陣すると、沁水けさせた。敵軍上流から火が着いた大筏を流したが、高熲はあらかじめのような形をした土嚢仕掛けてこれを防いだ川を渡る燃やして敵軍大い打ち破った。鄴に進軍し尉遅迥交戦し宇文忻・詢らとともに策を設けてこれを打ち破り、乱を平定することに成功した帰還する柱国に位が進んで義寧県公に改封され、相国司馬となった581年開皇元年)、隋が建国されると、高熲尚書左僕射納言となり、渤海郡公に改封され、しばらくして左衛大将軍加えられた。このとき突厥がしばしば侵入していたため、文帝高熲辺境鎮圧させた。新都大監を兼ねて新都大興城長安)の建設司り制度多く彼によって出された。さらに左領軍大将軍を加えられた。母の死により職を去るが、詔勅によりすぐ呼び戻された。 582年長孫覧元景山らを指揮して南朝陳を討つが、陳の宣帝死去したため、喪中にある敵を攻撃することは非礼であるとし、兵を撤退させた。文帝に陳攻略の策を問われると、江南収穫期攻撃する振り繰り替えして敵を疲労させ、さらに攻撃振り繰り返すことによって相手油断させること、また密かに工作員派遣して糧食備蓄焼き討ちすることを進言した。文帝がこの策を実行すると、陳の財力大きく疲弊した588年晋王楊広(後の煬帝)を総大将として陳平定の兵が起こると、高熲元帥長史として楊広補佐し全軍指示はすべて彼の判断任された。翌589年、陳の首都建康陥落させ、皇帝後主捕らえ、陳を滅ぼすことに成功した功績により上柱国進み斉国公に爵位上げられた。この時、楊広後主寵姫である張麗華自分のもとに納めようとしたが、高熲は「(周の)武王は殷を滅ぼすと、妲己殺しました。いま陳を平定し張麗華手に入れるわけにはいきませんと言い、兵に命じて張麗華を斬らせた。このことから楊広高熲を憎むようになった。 高熲文武大略があって政務通達し蘇威楊素賀若弼韓擒虎多く優れた人材推挙し、彼らの才能尽くさせた。文帝からは常に独弧と呼ばれ信任厚く20年近く宰相地位にあって朝野すべてが信服し異議を唱えるものはなかったという。文帝治世栄えたのは高熲の力によるものであった

※この「文帝の宰相として」の解説は、「高熲」の解説の一部です。
「文帝の宰相として」を含む「高熲」の記事については、「高熲」の概要を参照ください。

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