義澄方の将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 07:09 UTC 版)
義澄方の将としては、主将である澄元の他、細川政賢、松田頼亮(松田氏)など、幕府の直臣といえる人物が多い。大名としては河内で尚順と対立する河内畠山氏(総州家)の畠山義英や播磨の赤松義村がいる。 澄元の実家である阿波細川家と、その被官である三好之長も当然義澄方であったと思われるが、当時の澄元の書状には澄元の祖父で後見役であった細川成之が時期尚早であるとして出陣を見合わせるように意見したと記されており、成之と彼によって澄元に付けられた三好之長は一連の上洛戦そのものに消極的であり、彼らは出兵を見送ったとみられている。特に三好之長は成之の説得を聴かない澄元に反発して出兵を拒否し、更に義稙方と内通しているという情報まで澄元はつかんでいたとされる(ただし、同じ時期に之長は成之の勢力圏であった備前国児島への出兵を行っており、澄元の打倒に動いた訳では無いことに注意を要する)。ところが、この合戦の直後に細川成之が病没、続いて澄元の兄である細川之持まで没すると、足利義稙や細川高国は、既に義稙方に降伏した細川尚春の息子・彦四郎に阿波を与える動きを見せ、これをきっかけに澄元と之長は和解して永正14年(1517年)の三好軍の淡路侵攻につながったとする。 なお、義澄方に参戦し自刃した「遊佐河内守」なる人物がいたことが分っており、この人物が畠山尾州家の家臣である遊佐順盛(のぶもり)に比定されることがあったが、この遊佐河内入道印叟は総州家の守護代の遊佐就盛の出家した姿である。 足利義澄方 細川澄元細川政賢 細川元常 松田頼亮 畠山義英遊佐順盛(印叟) 山中為俊
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