オルモック上陸
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リモン峠を攻めあぐねたアメリカ軍側は、日本軍の揚陸拠点であるオルモックへの上陸作戦を計画した。休暇予定の第77師団が召還され、上記のブラウエン飛行場攻撃の最中である12月7日に、80隻の船団によりオルモック南のイピルへ上陸作戦が行われた。奇襲を受けたイピルの日本軍は十分に抵抗できないまま後退した。レイテの詳細な戦況の情報を把握していない南方軍は、一定の成果を挙げていた「義号作戦」の続行を指示してきたが、第4航空軍は、「義号作戦」を中止して、残り少なくなった手持ちの特攻機と、陸軍対艦攻撃の専門部隊として、北海道で跳飛爆撃の猛訓練を積んできた第5飛行団の「一〇〇式重爆撃機」をオルモックに出撃させた。跳飛爆撃隊は、これまでと同様に戦果を挙げること無く2機を失ったが、特攻機の一部は突入に成功し、駆逐艦「マハン」、高速輸送艦(輸送駆逐艦)「ワード」、 中型揚陸艦「LSM-318」の3隻を撃沈した。なおも、陸軍特攻隊は出撃し、丹心隊の一式戦闘機「隼」7機と勤皇隊二式複座戦闘機「屠龍」2機が、リバティ船「ウィリアム S. ラッド(英語版) 」、PTボート 「PT-323(英語版)」2隻を撃沈している。 イピルからオルモックにはほとんど守備隊は配置されておらず、船舶工兵など補給関係の後方要員中心の2千名以下であった。10日にはオルモック市街にアメリカ軍が突入した。日本軍上層部は現地の状況を把握しきれず、11日夜に輸送艦で運ばれてきた救援部隊の海軍伊東陸戦隊は、アメリカ軍制圧下の地点に揚陸しようとして大損害を受けてしまった。8日から13日にかけて、日本側の増援部隊として挺進第4連隊がバレンシア地区へ空挺降下して駆けつけた。挺進第4連隊をはじめ一部に頑強な拠点もあったものの、12月15日にはオルモック地区は完全にアメリカ軍の手に渡り、日本軍の主要な補給線は断たれてしまった。 リモン峠方面の第1師団を中心とした日本軍はすでに戦力の限界に達しており、そのうえに背後が脅かされたため、12月21日、やむなく西海岸パロンポン方面への撤退を開始した。これ以後の戦闘は、アメリカ軍にとっては実質的に掃討戦となった。ただし、第77歩兵師団は日本軍の激しい抵抗により、上陸後の25日間で死傷者2,226名を出すなど苦戦を強いられている それでも日本側の南方総軍司令部は、オルモックに代わる揚陸拠点をレイテ島北西端に近いサンイシドロとし、すでに出航していた第68旅団も引き返させずにサンイシドロへ針路変更させるなどレイテ島の戦いに固執していた。しかし、第68旅団を乗せた船団は12月7日の入港直前に空襲で大打撃を受け、旅団は重装備の大半を失った。そのサンイシドロも、12月27日にアメリカ軍が上陸用舟艇による海上機動を行い、オルモック同様に簡単に占領した。リモン峠方面からの撤退部隊が目標としていたパロンポン港も、12月25日にアメリカ軍第77師団の一部が舟艇機動し制圧されてしまっていた。パロンポン占領をもって、アメリカ軍はレイテ島での組織的抵抗の終結を宣言した。アメリカ軍は、レイテ島の指揮権を第6軍から第8軍へ移行させ、以後の掃討戦を行わせることにした。 1945年1月2日、日本の小磯首相は、レイテ決戦をルソンを含んだフィリピン全体の決戦に拡大すると発表し、事実上レイテ決戦の敗北を認めた。
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