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1 三寸金蓮 - 軍閥将軍の妾 (1909-1933) "Three-inch golden lilies" 15歳で、私の祖母は軍閥将軍の妾になった。1931年、私の母が生まれた。 2 ただの水だって、おいしいわ - 夏先生との再婚 (1933-1938) "Even plain cold water is sweet" 将軍が亡くなり、祖母は自由になった。漢方医の夏先生の正妻として再婚。 3 満州よいとこ、よいお国 - 日本占領下の暮らし (1938-1945) "They all say what a happy place Manchukuo is" 1932年に日本は錦州を占領。日本統治下で母は女学生として暮らす。 4 国なき隷属の民 - さまざまな支配者のもとで (1945-1947) "Slaves who have no country of your own" 1945年8月に日本が降伏。ソ連兵が来て、その後国民党が統治。 5 米十キロで、娘売ります - 新生中国への苦闘 (1947-1948) "Daughter for sale for 10 kilos of rice" 母は国民党を嫌い、共産党地下組織に加わった。1948年10月、共産党が錦州を占領。 6 恋を語り合う - 革命的結婚 (1948-1949) "Talking about love" 母は王同志と会った。互いに好感を抱き、恋愛となり、結婚。 7 五つの峠を越えて - 母の長征 (1949-1950) "Going through th five mountain passes" 母は錦州がいやになり、父の故郷、四川省の宜賓(イーピン)へ行く。南京まで徒歩。 8 故郷に錦を飾る - 家族と匪賊の待つ四川省へ (1949-1951) "Returning home robed in embroidered silk" 母は仮共産党員だった。党員のいじめで、なかなか正式な党員にしてもらえない。 9 主人が高い地位につけば、鶏や犬だって天に昇る - 清廉潔白すぎる男 (1951-1953) "When a man gets power, even his chickens and dogs rise to heaven" 1952年に私が生まれた。母の女上司の挺が父に色目を使う。一家はいらぬ危険を避けて、成都へ。 10 苦難が、君を本物の党員にする - 母にかけられた嫌疑 (1953-1956) "Suffering will make you a better communist" 反革命分子の摘発のため、母は隔離審査を受けた。仮釈放の間に3歳の私に会いに来た。 11 反右以降、口を開く者なし - 沈黙する中国 (1956-1958) "After the anti-rightist campaign no one opens their mouth" 1957年に反右派闘争。いかなる党批判も許されない事が明らかになった。 12 米がなくても飯は炊ける - 大飢饉 (1958-1962) "Capable women can make a meal witout food" 私は恵まれた小学生だった。「大躍進」による飢饉で、中国で3000万人が餓死したと言われる。 13 だいじなだいじなお嬢ちゃん - 特権という名の繭の中で (1958-1965) "Thousand-gold little precious" 私は恵まれた教育を受けた。ひとりで考えごとをするのが好きだった。 14 父よりも、母よりも、毛主席が好きです - 毛沢東崇拝 (1964-1965) "Father is close, mother is close, but neither is as close as chairman Mao" 子供たちの心には、忠誠の対象はただひとり毛主席のみ、という思想がたたきこまれた。 15 まず破壊せよ、建設はそこから生まれる - 文化大革命はじまる (1965-1966) "Destroy first, and construction will look after itself" 1966年5月、「走資派」に対する文化大革命が始まった。学校の授業がなくなった。 16 天をおそれず、地をおそれず - 毛主席の紅衛兵 (1966) "Soar to heaven, and pierce the earth" 北京の各学校で紅衛兵が組織された。十代の若者たちが毛沢東の手足となった。 17 子供たちを「黒五類」にするのですか? - 両親のジレンマ (1966年8-10月) "Do you want our children to become 'Blacks'?" 父は学生らの攻撃目標になった。父は文化大革命を中止するよう毛主席に手紙を書く。 18 すばらしいニュース - 北京巡礼 (1966年10-12月) "More than gigantic wonderful news" 私は政府が奨励する北京巡礼に行き、一瞬だけ毛主席を見た。 19 罪を加へんと欲するに、何ぞ辞無きを患えんや - 迫害される両親 (1966 12月-1967) "Where there is a will to comdemn, there is evidence" 父母をつるしあげる批闘大会が開かれた。父は文革を中止するよう、もう一度毛主席に手紙を書く。 20 魂は売らない - 父の逮捕 (1967-1968) "I will not sell my soul" 父が逮捕された。母は周恩来に直訴。父は釈放されたが、精神異常になっていた。 21 雪中に炭を送る - 姉、弟、友だち (1967-1968) "Giving charcoal in snow" 1968年、全国の大学生は全員くりあげ卒業し、下放された。 22 思想改造 - ヒマラヤのふもとへ (1969年1-6月) "Thought reform through labor" 1969年、私たち一家もばらばらに下放された。父は米易、姉と私は寧南、母は牛郎パア(土へんに貝)。 23 読めば読むほど愚かになる - 農民からはだしの医者へ (1969年6月-1971年) "The more books you read, the more stupid you become" 私は徳陽の人民公社に入る事ができた。労働は時間で評価され、みんなゆっくり働く。 24 どうか、ぼくの謝罪を聞いてください - 労働キャンプの両親 (1969-1972) "Please accept my apologies that come a lifetime too late" 母と父のところへ面会に行けた。心ある人たちのおかげで数ヶ月いっしょに暮らせた。 25 かぐわしい風 - 『電工手冊』、『六つの危機』、新しい生活 (1972-1973) "The fragnance of sweet wind" 文化大革命は行き詰まった。母は名誉回復。私は母の口ききで四川大学に入学し、英語の勉強を始めた。 26 外国人の屁を嗅いで芳香と言うに等しい - 毛沢東の時代に英語を学ぶ (1972-1974) "Sniffing after foreigners' farts and calling them sweet" 英語の入門書がない。でも大学図書館には英語蔵書が残っていた。オルコット、オースチン、ブロンテ姉妹..。 27 これを天国と呼ぶなら、何を地獄と言うのか - 父の死 (1974-1976) "If this is paradise, what them is hell?" 父は名誉回復できないまま死んだ。母は当局の悼辞を修正させた。1976年に毛沢東も死んだ。 28 翼をこの手に (1976-1978) "Fighting to take wing" 私は大学を卒業した。父が名誉回復。英文科教師として、私に留学試験の話が来た。 エピローグ 1988年、ロンドンの私の所へ母が来て、過去の話をしてくれた。こうしてこの本を書く。
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緒論 東洋近世史の意義 西洋史は古代・中世・近世に分類される。中国史では漢帝国までが古代、以後の分裂時代が中世、宋の天下統一からが東洋的近世である。 1 世界と東洋との交通の概観 中国と西アジアは、陸路と海路で結ばれていた。長安は西方からの陸路の関門であり、海上交通の中国の起点は広東だった。隋の時代に大運河で長安と広東が結ばれ、世界的循環交通路の一環となった。 2 中国近世の社会経済 中世の自給自足経済から交換経済へ変化し、農業生産が商品化する。生産が分業化、品質改良される。荘園を耕作する部曲(隷農)は、自由民の佃戸(小作人)になった。 3 中国近世の政治 五代に貴族が没落し、宋代には独裁君主政体が確立した。 官僚は科挙で選ばれる。最終的に殿試で天子が選ぶので、官僚は天子に忠実だった。 この新貴族階級は士大夫と呼ばれる。 4 東洋近世の国民主義 遼は契丹文字を、西夏は西夏文字を、金は女真文字を作り、それぞれの国民主義が起こった。 一方漢民族の国民主義には攘夷思想が加わった。 5 近世の文化 唐までの儒教は訓詁学だった。一方宋学はより自由に経書の本質を追求する。 文学では駢儷体文を否定し白話(口語)文学が隆盛。 水墨画の技法による山水画は、色彩よりも線の面白さを追求する。 結語 東洋の近世と西洋の近世 中国の近世は西洋の近世に先んじた。羅針盤、火薬、印刷術は東洋に起源を見出しうる。一方、後発文明圏であった西洋は、産業革命以後に最近世となり、世界を先進した。
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1. 今は1943年。亡きアドリアン・レーヴァーキューンの生涯を語ろう。 2. 語り手の私は、哲学博士ツァイトブローム。 3. レーヴァーキューン家は農夫と職人の一族。 4. アドリアンの母と家。 5. アドリアンは初等教育を終え、ギムナジウムへ。 6. 私たちの故郷、カイザースアッシェルン。 7. アドリアンの叔父はヴァイオリン作り。 8. ベートーヴェンのピアノソナタ作品111についてのクレッチュマルの講演。 9. アドリアンはギムナジウムでクレッチュマルから音楽を学んだ。 10. ギムナジウムを卒業。アドリアンは専門に神学を選んだ。 11. ハレで2年間。アドリアンの神学思想の核心は聞けなかった。 12. ハレ大学のクンプ教授はマルチン・ルターに似ていた。 13. シュレップフース講師の講義。悪が存在するのは宇宙を完全にするためという。 14. 青春はドイツ青年の特権だ、など、野外生活で学生たちが議論。 15. アドリアンとクレッチュマルの文通。 16. アドリアンの手紙。ライプツィヒで娼窟にさそわれたという。 17. この手紙は読んだら抹殺せよと書いてあったが、ツァイトブロームは保存した。 18. アドリアンはクレッチュマルのもとで学ぶ。 19. 宿命的なできごと。アドリアンは昨年の女に会いに行った。そして梅毒に感染。 20. ライプツィヒで4年半、クレッチュマルのもとで修行。 21. アドリアンは歌曲、管弦楽曲を作曲。クレッチュマルはライプツィヒを去った。 22. 妹ウルズラの結婚。オクターブの十二音を同等に扱う音楽をアドリアンが語る。 23. ミュンヘンのロッデ家に下宿。ヴァイオリニストのルドルフ・シュヴェールトフェーガー登場。 24. シェイクスピアの『恋の骨折り損』を完成。音によるグロテスク模様。 25. アドリアンの死後に語り手が入手した手記。悪魔との対話。 26. アドリアンは田舎町プァイフェリングに下宿。以後18年住む。 27. 英語のリートや、幻想曲『宇宙の奇跡』を作曲。 28. 音楽の歴史について、ブライザッハー博士の悪意ある論評。 29. 美術史家インスティトーリスがイーネス・ロッデに求婚。 30. 1914年、戦争がはじまった。ドイツ人の熱狂。 31. ドイツは電撃戦に失敗。アドリアンは組曲『ゲスタ・ローマーノールム』を作曲。 32. イーネス・ロッデとインスティトーリスの結婚。イーネスはルドルフと浮気。 33. 敗戦。アドリアンの胃の障害と頭痛。 34. 1919年、『デューラーの木版画による黙示録』を着想、草案を6ヵ月で書いた。 35. イーネスの妹、クラリッサ・ロッデは、肉体関係をもった男に脅迫されて自殺。 36. ハンガリーのマダム・トルノ宅をアドリアンが訪問。 37. 仲介業者のフィテルベルクが演奏旅行を提案した。実現せず。 38. ルドルフのためにヴァイオリン協奏曲を作曲。 39. チューリッヒで夜会に招かれてマリー・ゴドーと会い、結婚を考えた。 40. マリー・ゴドーらとバイエルン・アルプスへ遠足。 41. 実はルドルフもマリー・ゴドーを愛した。 42. マリー・ゴドーはルドルフと婚約。そうしたら彼はイーネスに銃で撃たれて死んだ。 43. 1926年、『黙示録』の初演。室内楽3作。『ファウストゥスの嘆き』の構想。 44. アドリアンの妹ウルズラに、末子ネポムクが生まれた。 45. ネポムクは髄膜炎で死んだ。 46. 今は1945年4月。遺作『ファウストゥスの嘆き』を語り手が解説。 47. 1930年、『ファウストゥス』の完成発表の場でアドリアンは発狂。 終章 アドリアンは実家で療養し、1940年に死んだ。
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小説家志望として上京した小泉純一は、作家大石路花に会いに行く。 大石の書くものは真の告白だと批評家は言う。 小泉は借家を決めた。家主の知り合いで、大きな目の少女、お雪さんが登場。 新居にお雪さんがまた来る。純一は何か言おうとして言葉が見つからない。 小泉は故郷で、ベルタンさんという宣教師にフランス語を習った。 瀬戸にさそわれ平田拊石の講演会に行く。小説家中で一番学問がある人だという。 拊石のイブセン論。イブセンは求める人だ。自己で道を開く。 講演会で知り合った大村と論じる。新しい人は道徳や宗教にとらわれず、古いものを壊して建設する。 イブセンの劇を見に行く。隣に座ったのが坂井夫人。夫人から話しかけてきて、家にフランス語の文学全集があるから見に来なさいと言われる。 小泉の日記。坂井家を訪問した。 大村が来る。ヒュイスマンスの小説は、青年の読む本ではないと論評。 大村と汽車で大宮へ遠足。ワイニンゲルの女性論を論ずる。 大石路花宅に行く。書いている東京新聞の社主が変わり、新聞をアカデミックに変えた。路花はどんなものを書くだろうか。 部屋にお雪さんが来た。西洋雑誌の絵を見て、妹が入院した病院の話をしていく。 小泉の日記。坂井家に行った。(日記の1枚は破かれた。)坂井夫人は年末箱根に行く。 同郷県人の忘年会に出席。芸者を呼ぶか呼ばないかで、美徳だ偽善だと議論になった。 きれいな芸者、おちゃらと時々視線が合う。帰り際におちゃらから名刺をもらった。 家に帰り、おちゃらの名刺をマアテルリンクの『青い鳥』の中にはさんだ。 小泉の見た夢。出てくる女がおちゃらになり坂井夫人になりお雪さんになる。 大村が来た。幸福とは、内に安心、外に勢力、と大村は言う。 大村と歩く。三枝茂子の話を聞く。熱情的な短歌を読む一方、無邪気な質問をする女だった。 箱根に行く。途中国府津で一泊。きれいな宿屋は泊めてくれず、真っ黒な宿に泊った。 箱根で坂井夫人に会った。画家の岡村と睦まじくしていた。小泉は去った。 東京に帰って作品を書く決心をする。宿のきれいな女中、お絹さんははしょんぼりしていた。
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1 私は永劫の中に生まれた。私は私自身を愛することから始める。 2 私の言おうとする事は、多くは暗示によらねばならない。 3 私は、神を知ったと思っていたことを知った。私は偽善者だ。 4 私は自分の個性を知るため、他人の個性に触れてみようとした。それは結局私ではなかった。 5 私には生命を賭しても主張すべき主義はない。私は弱い。私は強い人と袖を分かつ。 6 私の個性は言う。個性以上に完全なものはない。外部から借りてきた理想、良心、道徳、神は不要だ。 7 個性は言う。個性に帰らねばならぬ。人間生活の本当の要求は生長だ。 8 私の個性によって、私は些かの安定を自分のうちに見出した。私の知り得たところを書き誌す。 9 私にも過去と未来はある。しかし最大無限の価値を持つのは現在だ。 10 外界の刺激をそのまま受け入れる生活を習性的生活と呼ぼう。そこには自己がない。 11 智的生活では、個性は外界と対立する。知識や道徳による保守的な生活である。 12 本能的生活には道徳はなく、したがって努力はない。必至的に自由な生活である。 13 3種の生活と外界との関係を図示 14 本能とは自然の持っている意志を指す。 15 愛は本能の働きである。愛は与える本能である代わりに奪う本能である。 16 愛は生長と完成とを欲する。奪うことによって。愛の本体は惜みなく奪うものだ。 17 見よ、愛がいかに奪うかを。愛は個性の飽満と自由とを成就することに全力を尽くす。 18 愛したが故に死なねばならぬ場合とは、個性の充実の完成だ。 19 憎しみとは愛の一つの変形である。よく愛するものほど、強く憎むことを知る。 20 愛は自足してなお余りある。人の最極の要求は自己の完成である。 21 愛が自己を表現した結果が、創造であり芸術だ。 22 社会生活も本能的生活を目指さねばならぬ。個人生活と調和されねばならぬ。 23 現在の文化は男性が作った。文化を見直してくれる女性の出現を望む。 24 以上のこの感想を、部分的にでなく、全体において読者は考えてほしい。 25 一つの思想が体験なしに受け取られると、提供者も享受者も空しい。 26 生きんとするものは、既成の主張で自己を金縛りにしてはなるまい。 27 思想は一つの実行である。 28 この思想に示唆を与えてくれた阪田泰雄氏に感謝する。 29 この訴えからよいものを聴き分ける人があったならば、私は苦しみから救われる。
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ひび割れた理想 伝統的な科学観によれば、科学において欺瞞が起こることは極めて稀であり、科学者コミュニティには欺瞞を速やかに排除する自浄能力があるとされる。しかし現実には、科学研究上の欺瞞行為がしばしば発生している。そうした理想と現実との食い違いを示す出来事として、1981年にアメリカ合衆国下院科学技術委員会で開催された、科学における欺瞞に関する聴聞会の様子が描かれる。この聴聞会に呼ばれた科学界の指導者たちは、伝統的な科学観に立ち、欺瞞というのは極めて稀なことで、仮に欺瞞が発生しても科学者コミュニティの自浄能力によってただちに訂正されるものだと力説する。しかし同じ聴聞会で証言に立ったジョン・ロングは、自分が長年に亘り多数のデータ捏造を繰り返していたことを冷静に告白する。両者の証言を聞き比べた議員たちは、科学者コミュニティに自浄能力があるのかどうか疑わしく思い、コミュニティが欺瞞の問題から目を背けているのではないかと感じる。聴聞会の直後にはジョン・ローランド・ダーシーによる別のデータ捏造が発覚したことも述べられる。 歴史の中の虚偽 歴史上の偉大な科学者たちが自らの理論を証明するために行ったとされる実験の中には、現代の基準では欺瞞に相当するものが含まれている。実例としてプトレマイオスやガリレイ、ニュートン、ドルトン、メンデル、ミリカンらの名前が挙げられる。プトレマイオスは、ヒッパルコスの観測データを盗用しており、また自らの理論に合うように観測記録を書き換えたり選択したりしていたことが判明している。ガリレオは実験を重視する現代経験科学の祖と見なされることもあるが、観念主義的で実験を軽視していた面がある。ガリレオが著書で「実際に行った」と主張する実験の一部は、実際には行われていなかったと考えられている。ニュートンも自分の主張する理論に説得力を持たせるため、観測数値を改竄していた。ドルトンが倍数比例の法則を自ら証明したとされる実験は、当時の技術では実施が不可能であったことが判明している。メンデルの法則の裏付けとなった実験も、結果が理論に合いすぎていて統計的に不自然だとの指摘がある。ミリカンの油滴実験でもデータの恣意的な選択が行われていたことが判明している。 立身出世主義者の出現 現代の科学者コミュニティでは業績として発表論文件数が重視される傾向にある。このため、知名度の低い論文誌で価値の低い論文が大量に発表され、そうした論文は殆ど誰にも読まれることがない。そのような傾向を象徴する事例として、1970年代後半のエリアス・アルサブティの研究不正が紹介される。アルサブティの手口は、知名度の低い論文誌から他人の論文を見つけてきて、それを丸ごと盗用し、知名度の低い別の論文誌で発表するというものであった。直ちに露見してもおかしくない大胆な盗用だが、アルサブティはこの方法を繰り返して発表論文件数を稼ぎ、奨学金や研究職の地位を得ていた。 追試の限界 1980年代はじめに有名な生化学者エフレイン・ラッカーの研究室で実験結果を捏造した大学院生、マーク・スペクターの事件(スペクター事件)が追試の限界というテーマで紹介される。 エリートの力 有力な研究者が後ろ盾となっている研究に対しては、審査が甘くなる傾向があり、欺瞞や誤った結果が訂正されるまで長い時間がかかる傾向がある。ジョン・ロング、野口英世の事例が紹介される。研究費の審査を2組の審査グループが審査した結果を比較する実験では、何がよい研究で、何がよい研究者であるかという判断に2つのグループの間で大きな相違が見られ、科学における客観性も神話であるかもしれないことが紹介される。 自己欺瞞と盲信 科学史上の錯誤や欺瞞の事例が紹介される。恒星視差を測定したと思ったロバート・フックやジョン・フラムスティードの誤り、実在しないN線を発見したと信じたルネ・ブロンロなど予測からくる自己欺瞞の例や、計算ができるとされた馬「賢いハンス」や、チンパンジーに手話を教える実験などが紹介される。さらに科学者が欺かれた例としてベーリンガーの偽化石事件、ピルトダウン人事件などが紹介される。 論理の神話 個々の分野の科学者コミュニティは、外部からもたらされた新しい理論や仮説に拒否反応を示す。仮に新しい理論や仮説が確かな証拠を伴って提示されたとしても、大半の科学者はなかなかそれを受け入れようとしない。こうしたことは科学史上しばしば繰り返されてきた。例として、ヴェーゲナーの大陸移動説や、電気抵抗に関するオームの考え、パスツールの病原菌説などが挙げられる。 師と弟子 パルサーの発見に関するバーネルとヒューイッシュの例が示すように、部下の業績を上司が奪うということが科学界ではしばしば起こる。何百という論文に著名な科学者の名前が単著者あるいは筆頭著者として記載され、その陰で下層の研究者や学生が搾取されている。このような構造が実験結果の捏造を生む可能性が指摘され、チャールズ・ロウのもとで働いたロバート・ガリスの事件などが紹介される。 圧力による後退 スターリン時代の共産圏において、ルイセンコが科学界で政治的権力を握り、科学界に悪影響を及ぼしたことが述べられている。 役に立たない客観性 心理学などの分野のデータでは、数値化されて科学を装っているが、実は科学的な手法に則っておらず、偏見に満ちた恣意的な結論を導くことを目的としている場合がある。 欺瞞と科学の構造 科学者による欺瞞を防止するためにはどうすればよいかを述べている。「論文の著者に名を連ねるものは論文に責任を負う」という原則を順守すること、論文の過剰生産を防ぐこと、最も緊急な改革が必要な医学研究の分野においては、医学研究と医学教育を分離するべきであることが提言されている。
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「Dishonored」の記事における「各章の概要」の解説
Dishonoredは序章および本編の9章で構成される。ほとんどの章はいくつかの区画に分かれており、一つの章の中でなら一度攻略した区画に戻る事も可能である。別の区画に逃げた所を敵に見られている場合は区画をまたいで追って来るので、ゲーム的な戦闘回避は出来ないようになっている。また、序章以外の9章はクリア後に結果のまとめが表示される他、ステージセレクトで遊び直す事も可能になる。 ※各章題の日本語訳は便宜上の物
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1 第16師団 昭和19年4月5日 この4月からレイテ島に配備されたのは第16師団(兵力18000名余)。師団長は牧野四郎中将。 2 ゲリラ フィリピンには前世紀から対スペイン、対米のゲリラがいた。昭和17年以後は対日ゲリラとなる。 3 マッカーサー ダグラス・マッカーサーはフランクリン・ルーズベルト大統領とハワイで会談。米軍のフィリピン上陸を決定。 4 海軍 フィリピン上陸米軍を迎え撃つ捷号作戦計画。台湾沖航空戦大勝利の誤報が、大本営のレイテ決戦作戦を生む。 5 陸軍 マニラの第14方面軍司令官山下奉文大将は、レイテ決戦に反対したが、結局従命。 6 上陸 10月17日-20日 10月20日、米軍がレイテ東岸のタクロバンとドラグから上陸。 7 第35軍 レイテ島の第16師団を含めて、フィリピン南半分の島々を統括する軍は第35軍。司令官は鈴木宗作中将。参謀長は友近美晴少将。 8 抵抗 10月21日-25日 上陸米軍と第16師団との戦闘。米軍はタクロバン、ドラグを占領。 9 海戦 10月24日-26日 米海軍を迎え撃つレイテ沖海戦。栗田健男艦隊は反転撤退し、米軍はレイテ上陸を完了。 10 神風 菊水隊、敷島隊など、神風特攻隊による特別攻撃は、レイテ沖海戦ではじまった。 11 カリガラまで 10月26日-11月2日 米軍はレイテ北岸カリガラへ進攻。日本は26日からの第1次多号輸送で第30師団第41連隊、第102師団独歩169と171大隊、第57旅団の天兵大隊を投入。しかしカリガラを守りきれず撤退。 12 第1師団 11月1日の第2次多号輸送で、第1師団(13000名余)が、レイテ島の決戦師団として上海から上陸。 13 リモン峠 11月3日-10日 第1師団はリモン峠へ。米軍はカリガラからレイテ西岸へ出ようとし、第1師団と戦闘。1ヶ月余のリモン峠戦の始まり。 14 軍旗 11月11日-15日 リモン峠の戦いの続き。第1師団は善戦。相手の米軍第24師団長アービング少将は解任される。 15 第26師団 11月9日と11日の第3次4次多号輸送で、ルソン島から第26師団(13000名余)がレイテへ。 16 多号作戦 多号輸送作戦のこと。第1次は第30師団第41連隊と第102師団、第2次は第1師団と第26師団第12連隊を輸送。第3,4次輸送で第26師団の主力人員を輸送したが、物資と護衛艦隊が沈められた。 17 脊梁山脈 第26師団独歩第12連隊と第16師団は、脊梁山脈を守備。米軍は南から迂回し、西海岸南部のダムラアンを占領。 18 死の谷 11月16日-12月7日 リモン峠戦の続き。疲労した米軍第24師団は、新手の米第32師団と交代。日本の第1師団は防戦。 19 和号作戦 多号輸送作戦、第5次(11月23日)は途中で壊滅。6次(28日)と7次(30日)は物資輸送に成功。第16方面軍はブラウエン空港攻略の和号作戦を立案。 20 ダムラアンの戦い 11月23日-12月7日 米軍ダムラアン基地を第26師団が攻撃。12月7日に米軍がオルモックに上陸したため退却。 21 ブラウエンの戦い 12月6日-7日 第26師団と第16師団と高千穂降下隊は、ブラウエンの米軍飛行場を攻撃。 22 オルモック湾の戦い 11月27日-12月7日 米海軍は第6,7,8次多号輸送を妨害攻撃。12月7日、米軍はオルモック上陸を開始。 23 オルモックの戦い 12月8日-15日 第26師団第12連隊がオルモック湾へ急行、抗戦するが、米軍はオルモックを占領。 24 壊滅 12月13日-18日 オルモックをとられたため、島内の陸軍への補給が断たれた。 25 第68旅団 12月7日-21日 12月7日に第8次多号輸送で、台湾からの第68旅団がレイテ北端サン・イシドロに上陸。しかし主戦場から遠すぎた。 26 転進 12月12日-21日 リモン峠周辺の第1師団と第102師団と第30師団に、レイテ島西北部への転進命令。 27 敗軍 12月22日-31日 大本営はレイテ放棄を決定。組織的抵抗は終了。第14方面山下司令官からは永久抗戦の訓示。 28 地号作戦 昭和20年1月1日-20日 第1師団のうち800名弱は、小型舟でセブ島などへ撤退。しかし舟が全滅し、1月20日でこの作戦は終了。 29 カンギポット 1月21日-4月19日 日本兵はカンギポット山周辺に残された。若干名がレイテ島を脱出。第35軍司令官鈴木中将は、ミンダナオ島へ渡る途上で4月19日戦死。 30 エピローグ 戦場はルソン島などへ移った。勝利した米軍はフィリピン政府に主権を返還。終戦後にレイテ島から出てきた日本兵はいなかった。
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1 原子学説との最初の出会い (1919-20年) 第一次大戦が終わった。高校卒業前に友人と対話。二酸化炭素は炭素原子1つと酸素原子2つが結合したものだという。この説明に使われる「原子価」とはどういう意味なのだろう? 2 物理学研究への決定 (1920年) ミュンヘン大学に入学。教授はアルノルト・ゾンマーフェルト。ヴォルフガング・パウリと友人となる。パウリは相対性理論について論文を書いたが、それより原子論の方がおもしろそうだと言う。 3 現代物理学における"理解する"という概念 (1920-1922年) ニールス・ボーアの原子モデルでは、原子の中の電子は、ある量子起動から他の軌道へ突然跳び移って、その際に自由になったエネルギーが一つの光量子になるのだという。しかし古典物理学上、回転軌道の荷電粒子はエネルギーを失い原子核に落ち込むはずでは?という問題があった。 4 政治と歴史についての教訓 (1922-1924年) コペンハーゲンのボーアの研究所へ。物理学の話ではなく、第一次大戦を始めた時のドイツ人の精神状態、中立国への侵攻などの議論になった。 5 量子力学およびアインシュタインとの対話 (1925-1926年) 休暇をとりヘルゴラント島へ。極微のエネルギーは離散値だ。同様に位置も離散値とし、反応前後の位置変化を伴う状態変化を縦横行列として表現する、行列力学を発見。原子内で電子の軌道を考える事は断念。この点をアルベルト・アインシュタインが批判する。 6 新世界への出発 (1926-1927年) エルヴィン・シュレディンガーが波動方程式を提唱。一方ハイゼンベルクは、電子の位置や速度を正確に決定する事はできるのか?不正確ならば、不正確さをどこまで小さくできるか?という問題を考察。ちょっとした計算で答えが出た(不確定性原理)。 7 自然科学と宗教の関係についての最初の対話 (1927年) アインシュタインはよく神について語るが、いったいどういう意味か。パウリによれば、「物の秩序を自然法則の簡明さの中に感知する」という。 8 原子物理学と実用主義的な思考方法 (1929年) アメリカでバートンと対話。20世紀の新物理学は古典物理学の改良と言っていいか?ハイゼンベルクは、改良というより根本的な変更だ言う。 9 生物学、物理学および化学の間の関係についての対話 (1930-1932年) アインシュタインは統計力学的な熱学をよく知っているのに、どうして量子力学の統計的な性質を受け入れないのか?この疑問から、いろんな自然科学の思考法についての議論。 10 量子力学とカント哲学 (1930-1932年) カール・フリードリッヒ・フォン・ワイツェッカーが登場。グレーテ・ヘルマン(ドイツ語版)との対話。科学は因果律を探求するものであり、それを放棄した量子力学は科学と言えないのでは?と問題提起。 11 言葉についての討論 (1933年) ジェームズ・チャドウィックが中性子を発見した。では原子核の中で陽子と中性子はなぜくっついていられるのか?ポール・ディラックが発見した陽電子で説明が可能だろうか? 12 革命と大学生活 (1933年) アドルフ・ヒトラーが首相となり、ユダヤ人追放を開始。これは不正だ。自分はどうすべきか、マックス・プランクに意見を求める。 13 原子技術の可能性と素粒子についての討論 (1935-1937年) ハンス・ハインリッヒ・オイラー(英語版)と議論。ディラックが発見したように、光量子は一対の電子と陽電子に変わりうる。ではエネルギーの大きな素粒子の衝突では何が起こるだろうか。 14 政治的破局における個人の行動 (1937-1941年) オットー・ハーンが核分裂を発見。ドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦がはじまる。原子エネルギーの技術的応用の研究を命じられた。 15 新しい門出への道 (1941-1945年) われわれは原理的には原子爆弾を作り得ると知っていた。しかし莫大な出費が必要と考えていた。結局原子爆弾の製造は命令されなかった。そして敗戦。 16 研究者の責任について (1945-1950年) 原子爆弾が広島市に投下されたと聞いた。最もひどいショックを受けたのは、オットー・ハーンだった。この不幸について、われわれはみな共犯なのだろうか? 17 実証主義、形而上学、宗教 (1952年) 論理実証主義について論議。われわれは、自分がほんとうに考えているものとぴたり一致しないような描像や比喩を使って話をする事を強いられる、とボーアの言。 18 政治と科学における論争 (1956-1957年) コンラート・アデナウアーが核武装の権利を示唆。そこでワイツェッカーが中心となり、ゲッティンゲンの18人の科学者が、核兵器研究への協力拒否のゲッチンゲン宣言。 19 統一場の理論 (1957-1958年) リーとヤンは、パリティ非保存を発見。ハイゼンベルクはこれを含む統一場の理論作成を試みる。パウリが死んだ。 20 素粒子とプラトン哲学 (1961-1965年) 統一場の理論の考察が続く。
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新民主主義論は15章より構成され、各章の概要は以下の通りである 第1章 中国はどこへいく 科学的態度と具体的実践が必要。 第2章 われわれは新中国をうちたてる 政治革命・経済革命だけではなく文化革命も含む。 第3章 中国の歴史的特徴 中国革命の第一歩は「民主主義革命」、第二歩は「社会主義革命」。 第4章 中国革命は世界革命の一部分である ブルジョア世界革命とプロレタリア世界革命。 第5章 新民主主義の政治 国体は革命的諸階級の「連合独裁」、政体は「民主集中制」。 第6章 新民主主義の経済 大企業の国有化、資本主義的私有の一部容認、農地の私有化、共同組合経済。 第7章 ブルジョア独裁を反ばくする 帝国主義と反帝国主義、統一戦線。 第8章「左」翼空論主義を反ばくする 「一回革命論」への批判。 第9章 頑迷派に反ばくする 三民主義と共産主義の共通点と相違点。 第10章 旧三民主義と新三民主義 「連ソ、連共、農労援助」の三大政策を持つ三民主義。 第11章 新民主主義の文化 旧勢力(帝国主義および封建階級)と新勢力(人民大衆、革命的諸階級)との闘争。 第12章 中国文化革命の歴史的特徴 「五・四」(世界ブルジョア階級の資本主義文化革命の一部分)以前と「五・四」以降(プロレタリア階級の指導する、人民大衆の反帝・反封建の文化)。 第13章 四つの時期 1919年の「五・四」以降、1921年の中国共産党創立以降、1937年のブルジョア階級の反革命陣宮への移動以降、1937年以降。 第14章 文化の性質の問題についての偏向 ブルジョア階級の文化専制主義や、単なるプロレタリア階級の社会主義ではなく、プロレタリア階級の社会主義文化思想によって指導される人民大衆の反帝・反封建の新民主主義。 第15章 民族的、科学的、大衆的な文化 革命的な民族主義、科学的思想と統一戦線の関係、革命的幹部与える知識と革命的大衆に与える知識の区別と結合。
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「シャトル外交激動の四年」の記事における「各章の概要」の解説
この著作に記載のない補足記事は[ ]内に入れた。 1 冷戦が本当に終結した日 1990年8月2日、イラクがクウェート侵攻。翌日それを非難して、米ソが共同声明を出した。これで冷戦が本当に終わった。 2 三十年来の友情 1988年の大統領選挙投票日の2日前に、30年来のつきあいのブッシュから国務長官を依頼された。 3 改革前夜の世界 当時の最重要課題は米ソ関係で、衰退しつつあるソ連を軟着陸させることだった。 4 超党派外交の立て直し - 中米の騒乱に終止符を打つ ニカラグアはコントラ戦争中だった。コントラ支援は断念し、1990年2月のニカラグア大統領選挙を支援。その結果サンディニスタ政権は下野、ニカラグア内戦は終わった。 5 ソ連 - ゴルバチョフ、シュワルナゼ、そして「新思考」 1989年3月にソ連のシュワルナゼ外相と、5月にミハイル・ゴルバチョフ書記長と初会談。ゴルバチョフは東欧各国の独自路線を認め、ポーランドとハンガリーは民主化へ進んでいた。 6 統合へ向かうヨーロッパ 1988年12月にゴルバチョフが通常兵器削減を発表。それを受けて1989年3月ヨーロッパ通常戦力交渉開始。 7 中国 - 大後退 [4月胡耀邦死。5月ゴルバチョフが中国訪問。] 中国でも政治改革を求めて天安門広場に学生らが集まった。1989年6月3日、天安門事件。それで中国に制裁を加える一方、米中関係が完全に切れない事にも留意した。 8 中東 - 泥沼の洗礼 4月イスラエルのイツハク・シャミル首相にパレスチナ代表との会談を提案したが、シャミルは同意しない。 9 ジャクソンホール精神 9月ワイオミング州ジャクソンホールでシュワルナゼ外相と会談。軍縮問題やソ連内外のさまざまな問題を議論。 10 ベルリンの壁の崩壊 89年9月、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放(汎ヨーロッパ・ピクニック)。89年11月9日、東ドイツが国民に西側への旅行を許可。ニュースを聞いた市民がベルリン国境に押し寄せ、東西ベルリン国境の検問所が開放された。翌日市民はベルリンの壁を破壊した。引き続く東欧革命。12月ブッシュとゴルバチョフのマルタ会談。 11 パナマ - 独裁者の時代が終わった日 12月20日マヌエル・ノリエガ将軍が支配するパナマへ侵攻、ノリエガを逮捕。 12 ドイツ統一への方程式 90年2月のオタワ会議で、ドイツ統一について、東西ドイツ+米英仏ソの2+4国で討論することに決定。[90年3月にゴルバチョフがソビエト連邦大統領になった。] 13 アフリカ - アパルトヘイトの終息 南アフリカでは89年9月にデクラークが大統領になり、90年2月にネルソン・マンデラを釈放。アパルトヘイトが終わった。 14 激動の始まり - ドイツ統一、リトアニア独立、ソ連の内紛 5月、統一ドイツが「加盟する同盟組織を選ぶ権利を持つ」事にゴルバチョフが同意。7月、統一ドイツがNATOに加盟することをソ連が承認。[10月3日ドイツ再統一。] 15 クウェート侵略への序曲 8月2日イラク軍がクウェート侵攻。多くの国はサダム・フセイン大統領が本当に侵攻するとは予想していなかった。 16 対イラク連合の結成 第1章のような米ソの対イラク共同声明。国連安保理でイラク非難の決議(国際連合安全保障理事会決議660,661,662,664,665,666,667,670,674)。 17 必要なあらゆる手段 11月29日の安保理で、イラクが翌年1月15日までに撤退しなければ「必要なあらゆる手段を行使する」と決議(国際連合安全保障理事会決議678)。 18 アメリカ国内のコンセンサス作り 国内議会も味方にせねばならない。1月のベーカー・アジズ会談が決裂に終わると、議会も開戦に賛成した。 19 和平への最後かつ絶好のチャンス 1991年1月9日にジュネーブでイラクのアジズ外相と会談したが、イラク軍撤退交渉は決裂。 20 盾が剣に変わる日 1月14日まで多国籍軍の関係諸国、英仏独伊加豪、アラブ諸国と調整。この時期にソ連軍がリトアニアを攻撃(血の日曜日事件 (リトアニア))。 21 瀬戸際の攻防 1月17日バグダッドを攻撃し、湾岸戦争開始。対するイラクは、イスラエルにミサイル攻撃。これに報復しようとするイスラエルを自重させねばならなかった。 22 ゴルバチョフの和平工作 ゴルバチョフが和平を提案。イラク軍の撤退に3週間の猶予を希望したが、米は拒否。2月24日地上戦開始。28日終戦。 23 中東の戦後の展望 戦争が終わり、イスラエル問題を含む中東和平について改めて各国に接触。 24 権力の座に居すわるサダム・フセイン バグダッド占領はしなかったので、フセインは戦後も大統領だった。[息子ブッシュの2003年のイラク戦争までイラク大統領だった。] 25 中東和平会議への序曲 - 責任は誰が負う 中東和平会議をしようにも、イスラエルのシャミル首相もシリアのアサド大統領も同意しない。 26 ベルリンからバルカンへ 1990年11月にヨーロッパ通常戦力条約調印。12月シュワルナゼ外相辞任。91年6月ボリス・エリツィンがロシア大統領。7月START調印。6月にスロベニアとクロアチアがユーゴスラビアから独立宣言をし、セルビアによる攻撃が迫っていた。 27 和平への突破口 7月、アサドが中東和平会議に合意した。それでシャミルも出席に合意。パレスチナ代表も出席し、10月にマドリードで中東和平会議。 28 揺れる帝国 8月19-21日、ソ連8月クーデターが失敗に終わる。ゴルバチョフは共産党書記長を辞任。共産党中央委員会解散。9月バルト三国独立をソ連が承認。 29 入植、債務保証、そして和平交渉 シャミルがヨルダン川西岸地区への入植を継続するので、米国はイスラエルの債務保証を中止。6月の選挙でイスラエル首相は労働党のイツハク・ラビンに変わり、入植を中止した。 30 涙ながらにごみ箱へ 12月21日エリツィン主導のアルマアタ会議で、ロシアをはじめとする独立国家共同体(CIS)が誕生。12月25日ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、ソ連は消滅した。 31 新時代の幕明け 中国訪問。北朝鮮、アンゴラ、ハイチ、エルサルバドル問題に介入。NAFTAやウルグアイ・ラウンドの承認は94年になった。 32 新独立国の自由を支援する 支援国調整会議でCIS各国を援助。92年2月キャンプ・デービッドでブッシュ・エリツィン会談。CIS各国を訪問。 33 ボスニア - この世の悪夢 91年9月からセルビア対クロアチア紛争。92年4月からボスニア・ヘルツェゴビナ紛争と、ユーゴスラビア紛争が続く。 34 冷戦後の世界 - 民主主義による平和の模索 ロシアの経済改革支援。92年5月、旧ソ連内の核保有国はロシアだけになった。START II交渉(調印は1993年1月)。1992年8月国務長官を辞し、大統領首席補佐官になった。
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