リモン峠の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:53 UTC 版)
すでに述べたとおり、日本の第14方面軍にとって最大の課題はレイテへの兵員、軍需品その他の物資の輸送だった。レイテ沖海戦の敗北は補給をより緊急のものとすると同時に、いっそう困難なものにさせた。日本陸軍は、手始めに第102師団の一部などを増援部隊として送り込んでいた(鈴号作戦)が、続いてレイテ沖海戦の最中から一連の増援作戦を発動していた(海軍側は鈴号作戦を含め多号作戦と呼称)。これにより結果的にレイテ島に送られることとなった主な増援兵力は次のとおりである。 第30師団(両角業作中将)の2個連隊基幹 ミンダナオ島から増援 第102師団(福栄真平中将)の主力 セブ島から増援 第1師団(片岡董中将) 上海から派遣 第26師団(山県栗花生中将) ルソン島駐留の第14方面軍直轄 第68旅団(栗栖猛夫少将) 上に同じ 第8師団(横山静雄中将)の1個連隊基幹 上に同じ 10月24日に出発した第30師団の歩兵第41連隊は、軽巡鬼怒などの海軍艦艇により輸送され、無事にレイテ島西岸オルモックへの上陸に成功した。しかし、第102師団司令部などの輸送は失敗した(第1次多号作戦)。上陸に成功した歩兵第41連隊は北上して、同じく北岸のカリガラ湾へ抜けようとするアメリカ第10軍団と交戦状態になった。約2日の進撃遅滞に成功した後に歩兵第41連隊の防衛線は突破され、11月初めにはカリガラ湾一帯はアメリカ軍の制圧下となった。同じ頃には第16師団の防衛体制もすべて崩壊しており、30日には歩兵第33連隊が全滅、東海岸の飛行場5つは26日までに連合軍に奪われていた。第16師団の残存部隊は脊梁山地へ後退した。なお、約20日後の11月20日の第16師団兵力として約3800名と記録されている。 10月31日、レイテへの最初の本格増援である第1師団がマニラを出発し、レイテ島西岸のオルモックへ向かった(第2次多号作戦)。この輸送作戦は、輸送船4隻中1隻が物資陸揚げ中に沈んだのみで成功し、兵員、物資ともにほとんど無傷で翌11月1日にオルモックに上陸した。同日、第26師団先遣隊の独立歩兵第12連隊(今堀支隊)も海軍の一等輸送艦部隊により無事に輸送され、うち輸送艦1隻はセブ島へ戻り、今度は鈴木中将以下の第35軍司令部をレイテへ運んだ。 無事に上陸できた日本軍の第1師団は、カリガラ湾一帯にアメリカ軍が侵入していると知らず、歩兵第41連隊と同様に北上してカリガラ湾に臨む平原でのアメリカ軍との決戦を企図した。ところが、カリガラ湾に抜ける途中のリモン峠で予想より早くアメリカ軍の第24師団と遭遇し、戦闘となった。以後、日本側はリモン峠一帯の山地に防衛線を展開し、オルモック目指して南下するアメリカ軍を阻止する状況となった。 アメリカ軍は第24師団を主力に、第1騎兵師団の一部を加えてリモン峠を攻撃したが、容易には突破できなかった。予想外の苦戦に、アメリカ軍は第6軍予備としていた第32師団に加え、急遽呼び寄せた第11空挺師団を増援部隊として11月中旬にレイテ島へ投入した。うち第32師団が、上陸以来の戦闘で大損害を受けていた第24師団と交代して主力となった。11月25日にアメリカ軍はリモン峠北部の制圧を宣言したが、以後もリモン峠周辺から南方の脊梁山地では激戦が続いた。この時点までで、リモン峠でのアメリカ軍損害はおよそ死傷1500人であった。
※この「リモン峠の戦い」の解説は、「レイテ島の戦い」の解説の一部です。
「リモン峠の戦い」を含む「レイテ島の戦い」の記事については、「レイテ島の戦い」の概要を参照ください。
- リモン峠の戦いのページへのリンク