アルマ・アタ会議
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1921年、カザフスタンのアルマアタ(アルマトイ)において開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、ロシア人トルコ学者のセルゲイ・マローフ(Сергей Ефимович Малов)が「ウイグル」という民族名称の復活を発議し、同大会はこれを受けて、「ウイグル」民族名称を自ら名乗ることを決定した。 このときの「ウイグル民族」とは、東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民とその子孫であるが、「ウイグル」という民族呼称が復活されるまではタランチ集団やカシュガル人、トゥルファン人など、民族名称というよりも祖先または自身の出身地を自称していた。 この会議はソ連による中央アジア「民族的境界画定」政策の準備作業の一つとみなされているが、「ウイグル」呼称がこのときに発案されたのでなく、それ以前にもムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されるようになっていた。 なお、マローフは中国甘粛地方のサリグ・ウイグルの研究者でもあった。サリグ・ウイグルは16世紀初頭に東トルキスタン東部から甘粛地方に逃れてきた仏教徒のことを指す。
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アルマ・アタ会議
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1921年、カザフスタンのアルマアタ(アルマトイ)において開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、ロシア人トルコ学者のセルゲイ・マローフ(Сергей Ефимович Малов)が「ウイグル」という民族名称の復活を発議し、同大会はこれを受けて、「ウイグル」民族名称を自ら名乗ることを決定した。 このときの「ウイグル民族」とは、東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民とその子孫であるが、「ウイグル」という民族呼称が復活されるまではタランチ集団やカシュガル人、トゥルファン人など、民族名称というよりも祖先または自身の出身地を自称していた。 この会議はソ連による中央アジア「民族的境界画定」政策の準備作業の一つとみなされているが、「ウイグル」呼称がこのときに発案されたのでなく、それ以前にもムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されるようになっていた。 なお、マローフは中国甘粛地方のサリグ・ウイグルの研究者でもあった。サリグ・ウイグルは16世紀初頭に東トルキスタン東部から甘粛地方に逃れてきた仏教徒のことを指す。
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