海軍生活
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「フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア」の記事における「海軍生活」の解説
第二次世界大戦中は海軍の下級士官として従軍、カサブランカ沖海戦での勇敢な働きで勲章を受章した。父親の要請を受け、兄エリオット・ルーズベルトと一緒にウィンストン・チャーチル首相と1941年8月の大西洋会談、1943年1月のカサブランカ会談に参加した。また、テヘラン会談の前にもアフリカで父と会っている。 大西洋会談後、ニューファンドランド島アルジェンシャ(英語版)から、チャーチルと共に海を渡り、新たにアメリカが占領したレイキャヴィークの地に降り立った。それはイングランド、スコットランド、ウェールズ、アメリカの連帯を象徴するものであった。 そして駆逐艦メイラントの副長に就任し、1944年3月1日、少佐に昇進。7月18日には護衛駆逐艦ウルヴァート・M・ムーアの艦長となった。ウルヴァート・M・ムーアは太平洋で活動し、2機の日本軍機を撃墜、1隻の潜水艦を撃沈した。1945年9月2日に日本が降伏文書に正式に調印した際には、艦と共に東京湾にいた。驚異的な働きから "Big Moose" として知られ、12個の従軍星章、ブロンズスターメダル、パープルハート章、そして、戦火の中において重傷を負った兵士を安全地帯へ移した勇敢さを評価され、シルバースターを授与された。
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海軍生活
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「マーティン・フロビッシャー」の記事における「海軍生活」の解説
大失敗に終わった1578年の航海の後、出資者らから突き上げを食らったフロビッシャーは、1580年にイングランド海軍のキャプテンとなり、アイルランドを支援するスペイン船と戦った。フロビッシャーは1581年以後、喜望峰を回ってアジアに向かい、さらに北西航路を反対側の太平洋側から回ってヨーロッパに帰るという4度目の航海計画を立てたが、結局計画だけで終わってしまった。しかし彼は当時のイングランドでは北極探検の権威とみなされ、その探検記録はスペイン語にも翻訳されたほどだった。 1585年、イングランドとスペインは実質的な戦争状態(英西戦争)に突入した。フロビッシャーはサー・フランシス・ドレークの西インド諸島遠征に副官として加わった。25隻の私掠船からなる船団は西インド諸島のスペイン植民地を荒らしまわり、要塞などに打撃を与え、1586年夏に大量の財宝と共に帰国した。1588年にはスペインの大艦隊とのアルマダの海戦に司令官の一人として参戦した。彼はイングランド最大のガレオン船・トライアンフ号に乗ってスペインのガレオン船4隻を撃沈し、この活躍でナイトの爵位を得た。 1591年には故郷に戻り、第1代ウェントワース男爵トーマス・ウェントワースの娘、ドロシー・ウェントワースと2度目の結婚をしヨークシャーおよびノッティンガムシャーの大地主となった。しかし田舎暮らしに喜びを見いだせないフロビッシャーは翌年には再び英西戦争に身を投じた。サー・ウォルター・ローリーによるスペイン海岸遠征の船団に参加し、財宝と共に帰国した。この戦いで彼は片目を事故で失っている。 1594年11月、フランスのブルターニュ半島にあるブレストをスペイン軍が襲い、イングランドはフランスを支援するため軍を送った。フロビッシャーもブレスト攻略に参加したが、近くのクロゾン半島にあるスペイン軍のクロゾン要塞に対する攻城戦(Siege of Fort Crozon)で銃傷を受けた。彼はプリマスに後送されたが、傷の手当てが悪く、1594年11月15日に死亡した。遺体のうち傷みやすい部分はプリマスのセント・アンドリューズ教会に11月22日に埋葬され、そのほかはロンドンに運ばれ、セント・ジャイルズ=ウィズアウト=クリップルゲートに埋葬された。
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