海軍炭鉱での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
海軍練炭製造所採炭部関連の施設としては、事務所、海軍関係者が住む官舎、合宿所、医室、隔離病室、倶楽部、売店、そして直轄鉱夫が住む鉱員住宅、請負鉱夫が住む鉱員住宅などがあった。うち、事務所、官舎、合宿所などは麦川にあり、鉱員住宅については麦川の他に桃ノ木坑、櫨ケ谷坑の近くにあった。直轄鉱夫が住む鉱員住宅は1908年(明治41年)2月末は納屋40戸、鉱員は350名、1910年(明治43年)6月は納屋40戸、鉱員337名、一方、請負鉱夫が住む鉱員住宅は1908年(明治41年)2月末は納屋130戸あまり、鉱員は400名あまり、1910年(明治43年)6月は納屋240戸あまり、鉱員605名であったとの記録が残っている。炭鉱での仕事に関連する疾病には関しては直轄鉱夫は公傷として医室での治療を受けることが出来た。一方、請負鉱夫の炭鉱での仕事による疾病は嘱託医が治療したという。 海軍練炭製造所採炭部の鉱夫が住む納屋の住環境はお世辞にも良いとは言えなかった。海軍直営の納屋は4畳半一間のみで、一日に15銭前後の家賃がかかった。また、1916年(大正5年)の大嶺町荒川の炭鉱住宅は、当時美祢周辺では低所得者の住宅とされた杉皮葺きで、間取りは4.5畳と3畳の板の間であり、筵の上で寝起きしていたとの記録もある。労働条件も過酷で、一日二交代の12時間労働で、休憩時間も午前と午後に15分ずつしかなかったと伝えられている。一方、給与はというと特殊先山(採炭夫)が日給70銭、坑外夫が一日50銭であったという。しかし当時ほとんどの炭鉱がわらじ履きで仕事をしたのに対し、1920年(大正9年)頃からは地下足袋となるなど、労働待遇が良い面もあった。一方、請負鉱夫の待遇はというと、飯場主が鉱夫に衣食住すべてを保障する代わりに、給与のほとんどが飯場主が手に入れる仕組みとなっており、文字通りの搾取であったと伝えられている。 当時は坑内婦として婦女子も炭坑内で働いていた。1916年(大正5年)4月14日の新聞報道によれば大嶺海軍採炭支所では98名の女性坑夫が働いていたという。坑内婦はシャツ一枚、腰巻一枚で入坑していたといい、仕事後の風呂は男女混浴で、水替えが行われないためいつも真っ黒であったという。海軍練炭製造所採炭部周辺に飲食店は一つも無かったといい、娯楽施設は唯一、大嶺駅前にあけぼの座という劇場があったものの、月に2、3回ある興行の他は、たまに流しの浪曲芸人がやってくる程度であった。このような殺風景な炭鉱では女性問題などのトラブルが原因での刃傷沙汰がしばしば発生した。 鉱夫は主に北九州、島根県、広島県からやって来たと伝えられている。海軍練炭製造所採炭部には数名の鉱夫募集担当職員がいて、農閑期を中心に鉱夫募集に奔走した。また、北九州からの鉱夫が多かったのは海軍練炭製造所採炭部の請負をしていた内田鼎が福岡県粕屋郡出身であり、内田が地元北九州の鉱夫を呼び寄せたためであった。そして当初、娯楽施設がほとんど無く、飲食店すらなかった大嶺駅前の麦川の町も、炭鉱で働く人々が集まるにつれ、1907年(明治40年)頃からは住宅や商店が立ち並ぶようになっていった。
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