北極探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 15:03 UTC 版)
「フリチョフ・ナンセン」の記事における「北極探検」の解説
1882年にはグリーンランド水域への最初の航海を行ない、1888年から翌年にかけてグリーンランド氷原のスキーによる横断に成功した。1891年にイギリスの王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を受賞した。1893年には北極点遠征を行った。流氷に密閉されて漂流しながら極点に達するという計画で、特別に設計されたフラム号(後にロアール・アムンセンによって使用された、喫水線下が半円形に整形された船)に8年分の燃料と6年分の食糧を積み、12人の乗組員とともに同年6月24日にクリスチャニアを出港した。同年9月にフラム号は予定通り流氷群につかまり漂流を始めたが、ナンセンの考えたほど北極点に近づかなかった。フラム号がこのまま北極点に到達しないことは明白で、1895年3月にナンセンは士官のヤルマル・ヨハンセン(英語版)を伴いスキーで極点を目指すこととした。しかし旅は難航し、4月8日に北緯86度14分の地点に到達したところで残りの食糧が僅かとなり、極点到達を断念した。彼らはゼムリャフランツァヨシファで越冬することになり、セイウチやホッキョクグマの肉を食べながら1896年の夏までその場に滞在し、雪解けとともに南下を開始、運良くイギリスの探検隊に出会い帰国した。ナンセンと同時期に北極探検を気球で行ったスウェーデンのサロモン・アウグスト・アンドレーは、ナンセン帰国の翌年、1897年に遭難死している。アンドレーら3人の隊員の死因は、ホッキョクグマの肉を生で食したことにより旋毛虫症に感染した結果、衰弱死したと発見された1930年に推測されているが、ナンセンらの場合、加熱調理していたために無事だった。
※この「北極探検」の解説は、「フリチョフ・ナンセン」の解説の一部です。
「北極探検」を含む「フリチョフ・ナンセン」の記事については、「フリチョフ・ナンセン」の概要を参照ください。
北極探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:00 UTC 版)
「サロモン・アウグスト・アンドレー」の記事における「北極探検」の解説
北東航路を発見したアドルフ・エリク・ノルデンショルドの手引きにより、1895年にストックホルムで開催された地理学会での講演で「気球による北極点到達」という計画を公表。スウェーデン王立科学アカデミーの援助と、国王オスカル2世やアルフレッド・ノーベルの出資を得た。パリで水素ガス気球を調達した後、「エルネン号("Örnen"、「鷲」)と命名。彼の気球の特筆すべき点は、イギリスの気球家チャールズ・グリーンが発明した「ガイド・ロープ」と帆を組み合わせることにより、「ある程度の操縦性の確保」および「バラスト投下とガス放出に頼らない高度調整」を目論んだことにあった。1896年夏にスヴァールバル諸島から最初の探検を試みたが、風向きの問題から断念。世間からは厳しい非難を受けた上、メンバーの一人だったエクホルムは脱退した。 翌1897年7月11日、改めて同窓の技術者クヌート・フレンケル、カメラマンニルス・ストリンドベリと共にスピッツベルゲン島から北極飛行に出発。その後、伝書鳩で2回手紙を送ったのを最後に消息を絶った。 1930年になってスヴァールバル諸島のクヴィト島でアザラシ猟の船により彼らの野営跡が発見され、ノルウェーのブラトヴァーグ探検隊により大規模な捜索が行われた結果、遺留品と共に3人の遺体が発見された。残された日記及び、ストリンドベリが撮影した写真(33年経っていたために現像には苦労を要した)から、出発からわずか3日後の7月14日に気球が流氷上に不時着してしまったこと、そして徒歩で南下してスピッツベルゲンへ戻る途中、10月に3人とも死亡したことが判明した(確認できた日記の最後の記述は10月17日。アンドレーの日記の最後の部分は風に晒されて損傷してしまったために詳細な死亡日時は不明)。 3人の遺体はスウェーデンに戻ってまもなく火葬されたために詳細な死因は不明だが、日記の記述(クヴィト島に着いた後、彼らは腹痛と下痢、足の痛みを訴えていた)から、ホッキョクグマの肉を生で食べたことにより旋毛虫症に感染し、結果衰弱死したのではないかと推測されている。なお、彼らとほぼ同時期に北極を踏破したフリチョフ・ナンセンらは、ホッキョクグマの肉を油で加熱調理していたために無事だった。 3人の遺骨は盛大な葬儀の後にストックホルムのNorra begravningsplatsenに埋葬された。彼らの死から100年後の1997年にクヴィト島に記念碑が建てられた。 現在では、北極の気流は複雑なために気球による飛行は困難であることが判明している。なお、彼らの気球による北極への到達記録(北緯83度、東経24度)は、2000年にデヴィッド・ヘンペルマン=アダムズ(David Hempleman-Adams)により破られるまで長く更新されなかった。
※この「北極探検」の解説は、「サロモン・アウグスト・アンドレー」の解説の一部です。
「北極探検」を含む「サロモン・アウグスト・アンドレー」の記事については、「サロモン・アウグスト・アンドレー」の概要を参照ください。
北極探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/22 16:44 UTC 版)
1925年、アムンセンはノビレに電報を送ってオスロに招き、飛行船による北極横断飛行を提案した。ノビレは、その時点で存在するN-1飛行船はその目的には重すぎると判断し、工事中だったN級飛行船を使うことを提案した。しかしアムンセンは1926年までに準備が完了することをゆずらなかったため、ノビレは寒冷な気候で長距離飛行を行うためにN-1の改造をしなければならなかった。ノルウェー人はノビレが準備したN-1を購入する契約を結び、飛行船の名を「ノルゲ」と改めた。 北極横断飛行は1926年3月29日、ローマからスタートした。途中イングランドのパルハム(Pulham)で2日間停泊したあと、4月14日にノルウェーのオスロに飛んだ 。その後レニングラード(現サンクトペテルブルク)経由でノルウェー北部のヴァドソーに到着した。そこには今でも飛行船係留塔が立っている。探検行はそこからさらにバレンツ海を横断してスヴァールバル諸島のニーオーレスンにあるキングズベイまで進んだ 。ノビレはそこでフォッカー機による北極飛行の準備をしているリチャード・バードに会った 。ノビレは、ノルゲ号が北極とアラスカの間の、海図のない、知られざる陸地が有ると考えられている地域を飛ぶのだと説明した。その時点で彼はロバート・ピアリーがすでに北極に到達したと信じていた 。それが北極横断前の最後の休止であった。飛行船は5月11日の午前9時55分にニーオーレスンを飛び立ち、北極の氷を横断する最後の航程に向かった。 探検隊16名のうちアムンセン以外の15名は以下のとおりである。他にノビレの愛犬ティティーナも乗船していた 。 ウンベルト・ノビレ - 飛行船の設計者兼パイロット リンカーン・エルズワース - 極地探検のスポンサー オスカー・ウィスティング - 極地探検家、舵手 ヒャルマー・リーセル=ラルセン(Hjalmar Riiser-Larsen)中尉 - 航法士 Emil Horgen中尉 - 昇降舵操作員 Birger Gottwaldt大尉 - 無線エキスパート フィン・マルムグレン博士 - ウプサラ大学の気象学者 フレドリック・ラム - ジャーナリスト Frithjof Storm-Johnsen - 無線技師 Oscar Omdal空軍中尉 - 航空機関士 イタリア人乗組員Cecioni、Rigger Alesandrini - チーフ・メカニック Arduino、Caratti、Pomella - エンジンメカニック 彼らは5月12日午前1時25分(GMT)に北極点に達した。ノルウェーとアメリカとイタリアの旗がその地点の氷上に飛行船から投下された。アムンセンは後日、飛行船はノビレの下で空のサーカス馬車のようになったと苦々しく回想している。 5月14日、飛行船はアラスカ州テラーのエスキモーの村に到達した。天候が悪化しており、目的地であるアラスカ州ノームに飛行を続けることを諦め、当地に着陸を余儀なくされたのである。 ノルゲ号の前に3回の北極点到達の主張がなされている - 1908年のフレデリック・クック、1909年のロバート・ピアリー、それに1926年(ノルゲ号のほんの数日前)のリチャード・E・.バードである。これらについてはいずれもその精確さへの疑問や、明白な詐欺ではないかといった議論がある。こうしたノルゲ号以前の北極点到達についての論者の中には、ノルゲ号の乗組員こそが北極点に確実に到達した探検家であると考える者もいる。 ノルゲ号がテラーに着陸して小さな無線機を見つけるまでの3日間、ノルゲ号の無線は彼らの状況を送信することができなかった。北極を横切った後、飛行船を覆った氷の被膜は成長を続け、プロペラで吹き飛ばされたその破片は船体の外皮に穴を開けていた。ノビレは、修理できないほど多くの穴が開いたと報告している。 ノルゲ号は後にノルウェー航空クラブ(Norwegian Aero Klubb)に売却され、名前も変更された。
※この「北極探検」の解説は、「ノルゲ (飛行船)」の解説の一部です。
「北極探検」を含む「ノルゲ (飛行船)」の記事については、「ノルゲ (飛行船)」の概要を参照ください。
北極探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 18:22 UTC 版)
「ヴィルヒャムル・ステファンソン」の記事における「北極探検」の解説
1913年から1916年にかけて、ステファンソンはカナダ政府からの要請を受けて、パリー群島(現在のクイーンエリザベス諸島)の西部の地域を探索するために北極探検隊を組織し、その指揮を執った。探査船はカーラック号、メアリー・サックス号、アラスカ号の三隻が採用された。1913年の8月から9月にかけて、氷の中で身動きが取れなくなったとき、ステファンソンは本船であるカーラック号から離脱した。ステファンソンによれば、自分と5人の遠征隊員で、乗員に新鮮な肉を提供するために狩りに出かけたという。だが、船に取り残されたウィリアム・レアード・マッキンリー(William Laird McKinley)らは、氷を動かそうとしたせいで船が沈むのを防ぐためにわざと去ったのではないかと訝しんだ。ロバート・バートレット大尉(Captain Robert Bartlett)率いる24人の遠征隊員が乗った船は、氷とともに西へと漂流したのち、1914年1月11日にその氷に押し潰され、沈没した(バートレットは生き残り、仲間の救助活動に当たった)。ヘラルド島には4名の隊員が向かうも、一酸化炭素中毒が原因で死亡したものと思われている。アーネスト・シャクルトン(Ernest Shackleton)によるイギリス南極探検隊に所属していたアリスター・マッケイ(en:Alistair Mackay)以下4人は、自力でウランゲリ島へ向かおうとするも叶わず、命を落とした。バートレット大尉の指揮下にあった遠征隊員らはウランゲリ島へ向かった。イヌイットの狩人であるカタクトヴィックは、バートレットとともに助けを求めてシベリアへと向かった。その後、残りの生存者たちは、アメリカのスクーナー『King & Winge』と、アメリカ合衆国税関監視船艇(The United States Revenue Cutter)の手で救助された。 ステファンソンは、橇を使うことで探検を再開し、北極海を越え、1914年4月にはアラスカ州のコリンソン・ポイント(Collinson Point)から去った。ステファンソンの支えとなった橇は沖合で75マイル(約121㎞)後退するも、一緒にいた2人の男性が橇で前進し続けた。秋になってメアリー・サックス号に到達するまでの96日間、彼らは北極にてライフルによる狩猟生活を送り、1918年まで探検を続けた。
※この「北極探検」の解説は、「ヴィルヒャムル・ステファンソン」の解説の一部です。
「北極探検」を含む「ヴィルヒャムル・ステファンソン」の記事については、「ヴィルヒャムル・ステファンソン」の概要を参照ください。
北極探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 04:40 UTC 版)
「トマス・シンプソン (探検家)」の記事における「北極探検」の解説
1836年から1839年にかけて、トマス・シンプソンは、北極圏カナダ北岸の海岸線を跡づけ、北西航路を探索した他の探険隊が空白のまま残してきた空隙を埋める作業に関わっていた。この遠征隊を率いたピーター・ウォレン・ディーズ (Peter Warren Dease) は、ハドソン湾会社の主任代理商のひとりであった。このときシンプソンは副官に過ぎなかったが、ディーズは職責の大部分を彼に委ねた。後年の書物の著者たちは、このときのシンプソンを、野心に満ちた、自信過剰な若者として描く一方で、20歳年長だったディーズを北極行の経験が深く、効率的な、しかし、自信に欠ける人物と捉えている。このときは、さらに10人の隊員が加わっていたが、その中には、ジョージ・バックがバック川を下った1834年の遠征隊に同行していた、カヌーの専門家ジェームズ・マッケイ (James McKay) とジョージ・シンクレア (George Sinclair) が含まれていた。 この遠征隊は、ハドソン湾会社が組織したもので、北西航路探索の大部分を担ってきたイギリス海軍によるものではなかった。遠征隊は、マッケンジー川を下って、北極海に達することを目指し、そこから西に進路を取って、ジョン・フランクリンが1826年に到達した最も西の地点と、フレデリック・ウィリアム・ビーチー (Frederick William Beechey)が到達した最も東の地点であるポイント・バローの間の空隙を埋めようと考えた。翌年夏、遠征隊は、フランクリンの1821年の経路に沿ってコッパーマイン川 (Coppermine River) を東へ下り、ターンアゲイン岬へ向かい、未知の海岸線に沿って、1834年に内陸から到達されたバック川の河口までは確実に到達した。
※この「北極探検」の解説は、「トマス・シンプソン (探検家)」の解説の一部です。
「北極探検」を含む「トマス・シンプソン (探検家)」の記事については、「トマス・シンプソン (探検家)」の概要を参照ください。
北極探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 01:54 UTC 版)
「ドナルド・バクスター・マクミラン」の記事における「北極探検」の解説
高校教師として5年勤めたマクミランは、難破船から2夜続けて合計9名を救助して探検家ロバート・E・ピアリーの目をひく。大学の先輩ピアリーに誘われ、マクミランは1908年の北極点探査隊に参加したが、かかとに凍傷を負ってしまい、3月14日に北緯84度29分地点で隊を離れるほかなかった。その26日後にピアリー隊は北極点に到達したと推測される。 マクミランはその後の数年をラブラドール探査に費やしインヌ(英語版)とイヌイットの民族学調査を行った。1913年にグリーンランド北部にあるとされた島の探査を組織しクロッカーランド遠征隊(en)隊長を務めるが、残念ながらめざす島は蜃気楼だったと判明した。遠征隊は足止めされて救助を待ち続け、ネプチューン号のロバート・A・バートレット(英語版)がようやく1917年に救出する。 第一次世界大戦の停戦直後、1918年12月24日にマクミランは海軍飛行予備隊(en)少尉の任官状を受け取る。当時44歳、アメリカ海軍史上最古参の少尉に列したことになる。戦後、マクミランは新たな北極探検を計画し資金集めに取りかかると、1921年、母校の名を冠したスクーナー船「ボウディン号(en)の進水式をメイン州イーストブースベイで迎える。探検隊は越冬するバフィン島に向けて出航、隊員にアマチュア無線家ダン・ミックスがおり、「WNP」局(「北極無線局」)を名乗って北極圏外との交信を続けた。 1923年にミニ氷期が訪れると懸念されるなか、マクミラン隊は国立地理学会(ナショナルジオグラフィック協会)の後援を受け、氷河が南下している証拠を求めボウディン号を再び北極点へと進めた 。 学会の後援と主にシカゴの起業家ユージン・マクドナルドから資金を受けたマクミラン隊は1925年、アメリカ海軍リチャード・バード少佐が率いる飛行艇部隊を伴い北極へ向かう。海軍はバフィン島とエルズミア島の航空測量、グリーンランド氷床の調査および北極海の前人未踏の地域の偵察を命じていた。ところが気象条件が厳しすぎたことに加えてエンジンの不調が続き、測位装置が未開発の時代だけに期待されたほどの成果が上がらなかった(ただしこのときの経験をバードは翌年の北極点到達に活用する)。この遠征の成果は北極圏から短波ラジオで通信ができると実証した点にある。 女性3名と科学者5名を含む探検家を案内し、マクミランは1926年9月にノバスコシア州シドニーに上陸する。一行はすでにラブラドールとグリーンランドで数ヵ月過ごし、動植物の標本収集を終えていた。ラブラドール州ネーン沖およそ20マイル (32 km)のスカルピン島にある古代遺跡にマクミランは目をつけており、1000年前に入植したノース人のものだろうと信じていた。島の本土側で見つけた10軒から12軒の住居址があり、基礎の一部を覆う地衣類を観察し数百年単位で歴史をさかのぼれると推定したが、ヴァイキングが築いたかどうか確信はなかった。イヌイットの伝承は「石のイグルー」を築いた男たちは船で海からやってきたといい、遺跡を呼ぶイヌイット語「トゥニトヴィク」Tunitvik は「ノースマンの場所」を意味する。スカルピン島の遺跡をヴァイキング起源であるとする最も強い論拠として、マクミランはその前年にグリーンランドで発見した遺跡との類似性をあげた。
※この「北極探検」の解説は、「ドナルド・バクスター・マクミラン」の解説の一部です。
「北極探検」を含む「ドナルド・バクスター・マクミラン」の記事については、「ドナルド・バクスター・マクミラン」の概要を参照ください。
「北極探検」の例文・使い方・用例・文例
- 北極探検
- 彼らは北極探検に出た。
- 彼らは北極探検に出かけた。
- 彼は北極探検に出かけた。
- 北極探検に行く
- 米国の探検家で、ピアリーの北極探検に同行し、ほかに多くの北極旅行を先導した(1875年−1946年)
- 米国の探検家で、3度の北極探検を率いた(1821年−1871年)
- 米国の北極探検家、米国の海軍士官で、北極に達した最初の人間であると考えられている(1856年−1920年)
- デンマーク人の民族学者で北極探検家
- スコットランドの探検家で、北西航路を捜し求めながらに、北極探検を率い、地理的発見をもたらした(1777年−1856年)
- 北極探検のページへのリンク