成都攻撃
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1940年(昭和15年)9月、華中方面の前線部隊12空 (司令長谷川喜一大佐)に配属され、1940年(昭和15年)10月26日昼、「長谷川部隊の戦闘機隊」を指揮して成都に対する戦闘機単独長駆襲撃 (第三回成都攻撃)を実施し、新津北東の上空で中華民国軍機10機(「E15型戦闘機」x5、フリート練習機x4、輸送機x1)と交戦して全機撃墜、1940年(昭和15年)11月6日に公開された『日本ニュース』第22号で「敵機撃墜の八勇士」として報道された。 第三回成都攻撃における飯田隊所属の「零式艦上戦闘機」(以下、「零戦」)一一型8機の編成と操縦者は以下の通りであった:指揮官 飯田房太大尉、二番機 光増政之一空曹、三番機 平本政治三空曹、第二小隊 一番機 山下小四郎空曹長、二番機 角田和男一空曹、三番機 岩井勉二空曹、第三小隊 一番機 北畑三郎一空曹、二番機 大木芳男二空曹。 また、角田和男は、昭和15年、12空在隊当時零戦の活躍で飛行隊が支那方面艦隊司令長官から感謝状を授与され、搭乗員達が喜んでいた際、飯田大尉だけが浮かぬ顔で、 「こんなことで喜んでいたのでは困るのだ。空襲で勝負をつけることはできないのだぞ。戦闘機は制空権を握って攻撃隊、艦隊の安全を確保し、海軍は制海権を握って陸軍の輸送の安全を確保するのが任務だ。最後の勝利は陸軍の歩兵さんに直接足で踏んでもらわなければならないのだ。砲兵も工兵も歩兵を前進させるための掩護部隊にすぎない。その陸軍の歩兵が重慶、成都を占領する見込みがなくては困るのだ。今、奥地攻撃で、飛行場に全弾命中などと言っているが、重慶に60キロ爆弾一発落とすには、爆弾の製造費、運搬費、飛行機の燃料、機体の消耗、搭乗員の給与、消耗など諸経費を計算すると約千円かかる。相手は飛行場の爆弾の穴を埋めるのに苦力(クーリー)の労賃は五十銭ですむ。実に二千対一の消耗戦なのだ。こんな戦争を続けていたら、日本は今に大変なことになる。歩兵が重慶、成都を占領できないなら、早く何とかしなければならないのだ。こんな感状などで喜んでいられる状態ではないのだ」 と話したことを回想し、「飯田大尉こそ、私の11年半の海軍生活の中でただ一人だけ、この人とならいつ、どこで死んでも悔いはないとまで信服していた士官だったのである」と記している。
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