制式後とは? わかりやすく解説

制式後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:51 UTC 版)

月光 (航空機)」の記事における「制式後」の解説

月光登場により、一時B-17やB-24によるラバウルへの夜間爆撃押さえ込むことに成功した。特に月光斜銃で初の撃墜記録した工藤活躍目覚ましく月光10機のB-17とB-24を撃墜したが、工藤九八式陸上偵察機でも三式爆弾で2機の大型爆撃機撃墜しており、合計12機の大型爆撃機撃墜日本海軍でもトップ戦果であった。しかし、戦力バランス大きく連合国軍側に傾いてくると効率の悪い夜間爆撃はあまり行われなくなったため、ソロモン諸島中部太平洋を巡る戦いで月光夜間迎撃より夜間偵察敵基地等の夜間襲撃等に用いられることが多くなった。事実、この時期月光装備されレーダーは対水上用のものである小園最初に下向き斜銃次に上向き斜銃による敵機攻撃発案したが、構想比較初期段階下向き斜銃による敵機攻撃現実的ではないとされ敵機攻撃には上向き斜銃使用されることとなったにも拘らず月光初期型上向き下向き斜銃が2挺ずつ装備されているのは、敵機迎撃並んで夜戦重要な任務考えられ敵基地などへの夜間攻撃では下向き斜銃の方が便利と考えられたためである。実際に月光による敵基地への攻撃行われており、1943年7月8日に、遠藤搭乗する月光レンドバ島攻撃して在地舟艇輸送船銃撃加えた8月21日にはベララベラ島アメリカ軍拠点爆撃し帰途PTボート銃撃して1隻を撃沈した判断された。しかし、戦況の悪化に伴い敵基地襲撃より敵機迎撃重要度増してくると下向き斜銃装備する意義薄れ後期型では上向き斜銃のみ装備となっている。 やがて戦局がさらに悪化すると、新型爆撃機B-29による日本本土空襲懸念高まったため、1944年3月1日帝都防空のために第三〇二海軍航空隊編成され小園がその司令官となったが、第三〇二海軍航空隊にも月光配備された。小園は早速手を回し遠藤引っ張って分隊長任命した。さらに小園1944年5月25日に、遠藤らを指揮する第302海軍航空隊第2飛行隊長に、第301海軍航空隊戦闘316飛行隊隊長更迭されていた美濃部正大尉任命したが、美濃部B-29邀撃任務指揮遠藤任せきりにして、自分理想であった夜間戦闘機による夜襲部隊の編成注力した。1944年7月4日硫黄島父島襲撃したアメリカ軍機動部隊に対して夜襲戦術始めて活かす機会恵まれ美濃部は、7月5日未明索敵月光6機、攻撃隊として月光1機と零戦2機の3機小隊6個の合計18機(含む偵察機24機)を出撃させた。しかし、本来はB-29邀撃のための訓練をしてきた第302海軍航空隊月光にとって、60爆弾を2発搭載したうえで、速度速い零戦伴って夜間の洋上進攻するのは大変な負担であった結局アメリカ軍機動部隊とは接触できずに、月光1機、零戦4機を損失したが、攻撃隊が向かっていたときにはすでにアメリカ軍機動部隊父島近辺から離脱しており、初めから敵を発見できる可能性皆無出撃であった唯一称えられるのは、出動命令とはいえ不慣れ困難な任務立ち向かった搭乗員精神力だけという結果終わってしまった。この攻撃直後美濃部在任わずか2か月弱で第302海軍航空隊第2飛行隊長から更迭された。この攻撃同時期に実質的に月光隊を指揮してきた遠藤は、3機の月光率いて本来の任務であるB-29迎撃のために大村航空基地派遣されており、この攻撃には出撃していなかった。8月20日北九州来襲したB-29迎撃した遠藤は、撃墜確実2機、不確実1機、撃破2機の戦果挙げる活躍見せて軍内にその名を轟かせている。 1944年10月開始されフィリピンの戦いにも月光投入された。第三〇二海軍航空隊更迭され美濃部は、第一航空艦隊第一五三海軍航空隊戦闘901飛行隊飛行隊長として月光7機を指揮し連日夜間来襲するB-24の邀撃任務に就いていたが、なかなか戦果挙げることができなかった。美濃部第1航空艦隊幕僚に「探照灯で敵を捕捉してさえくれれば一撃のもとに撃墜してみせる」と強気な発言をし、その発言実行するため、毎夜明け方まで自ら月光搭乗して目標となって防空隊探照灯訓練協力していた。しかし、月光専門である夜間迎撃戦闘では全く戦果上がらず逆に月光爆撃撃破されることが続いたため、美濃部月光日中邀撃任務出撃させることとした。1944年9月2日白昼美濃部命令三号爆弾搭載した月光4機、零戦2機が出撃したが、美濃部爆撃機戦闘機護衛ついていることを全く想定しておらず、月光来襲したB-24を攻撃する前に護衛P-3820機が上空から襲いかかってきた。奇襲受けた月光零戦慌てて三号爆弾投棄すると、B-24の迎撃諦めて離脱しようとしたが、零戦1機がたちまち撃墜され月光1機も被弾して不時着水して機体操縦士失われた美濃部は「これは大変なことになった」と考えて自分から申し出た夜間戦闘機による昼間出撃をたった1回出撃断念せざるを得なくなった再度夜間邀撃戻った戦闘901飛行隊であったが、9月5日夜間爆撃来襲したB-24に、中川正一飛曹が、体当たり対空特攻)を敢行幸運に中川月光損傷しただけで無事帰還し体当たりされたB-24はバランス崩して墜落したが、この対空特攻がのちの特別攻撃隊機運盛り上げることになったと、のちに神風特別攻撃隊編成深く関与した第一航空艦隊主席参謀猪口力平中佐回想している。 美濃部第302海軍航空隊で、月光アメリカ軍機動部隊への夜襲出撃させて失敗していたが、フィリピンにおいても月光アメリカ軍艦隊への夜襲使おう目論んでおり、未明黎明でのアメリカ軍機動部隊哨戒行っていたが、慣れない洋上哨戒任務では月光本領発揮できず、9月10日には索敵中の月光3機を一挙にF6F ヘルキャット撃墜されて6名の搭乗員戦死している。9月21日には薄暮索敵攻撃任務中の月光4機がアメリカ軍空母攻撃し250爆弾1発の命中報告し月光1機が撃墜され零戦1機も未帰還となり、この日をもって戦闘901飛行隊壊滅状態陥ったアメリカ軍側の記録では、1944年9月21日該当する空母被害なし)。機体損失加えて搭乗員損失壊滅的であり、分隊長士官全員戦死しパイロット当初の1/3になるまで消耗してしまった。美濃部思い立ち実践した月光によるアメリカ軍機動部隊への夜襲は、いずれも失敗終わったのみでなく多大な損失被っており、敵艦攻撃任務月光用いることの不利を如実に表していた。 フィリピンの戦いでは神風特別攻撃隊初出撃し、海軍航空隊あらゆる機体特攻機として出撃させられていたが、月光例外ではなく1944年12月28日神風特別攻撃隊月光隊として2機の月光特攻出撃している。この日にはリバティ船ジョン・バークとウィリアム・シャロンが特攻機突入受けてなかでもジョン・バーク搭載していた弾薬誘爆して一瞬乗組員68とともに轟沈している。 フィリピン激戦が続くなか、月光本土防空戦でも激戦繰り広げていた。相手これまでのB-17やB-24を遥かに上回る性能B-29となり、月光夜間のみならず昼間迎撃出撃したが苦し戦い強いられたそんな中第302海軍航空隊遠藤は、北部九州東京名古屋B-29撃墜数を増やし続け1945年1月14日最期の戦闘B-29を1機撃墜、1機撃破して、B-29撃墜破数合計16機(うち撃墜公認8機)を記録し月光の名前を国民知らしめて、国民的英雄となったB-17やB-24には善戦した月光も、B-29に対して速度大きく劣後するなどまともに戦え性能ではなく、その月光戦果積み重ねる遠藤は、若い搭乗員らからは神がかって見えたという。 遠藤は、1945年1月14日最期の戦闘B-29からの攻撃撃墜され戦死したが、戦死後全軍布告の上遠藤中佐二階級特進し、正六位にも叙せられ、功三級金鵄勲章追贈された。また、生前功績により横須賀鎮守府司令長官塚原二四三中将から表彰状防衛総司令官稔彦王大将から感状授与された。遠藤戦死日本ニュースでも取り上げられ全国映画館報じられたが、国民的英雄B-29撃墜王」の最期国民大きな衝撃あたえたその後アメリカ軍昼間の高々度爆撃の効果が無いと判断し夜間の焼夷弾爆撃切り替え命中精度高め為にB-29低空進入させはじめた。これに対して斜銃のみ装備により夜間迎撃する厚木基地配備され月光かなりの戦果挙げており、横須賀航空隊黒鳥四朗少尉倉本十三上飛曹機の様に一晩で5機撃墜した例もある。この頃になるとかなりの数の月光に対航空機用レーダー装備されていたが、搭乗員整備員レーダー取り扱い不慣れであったこと、レーダー自体信頼性低かったことなどから、実戦において戦果挙げるまでには至らなかった。そして、占領され硫黄島からP-51が多数来襲するようになると、海軍月光や、陸軍月光同様にB-29迎撃活躍していた二式複座戦闘機屠龍」といった鈍重な双発戦闘機迎撃は困難となっていった。 沖縄戦においては台湾高雄展開していた第一三三海軍航空隊所属機月光でしばしば沖縄アメリカ軍飛行場夜間攻撃している。フィリピンから撤退した美濃部指揮官となっていた、同じ海軍航空隊芙蓉部隊生産中止となっていた月光変えて艦上爆撃機彗星」(D4Y2)の夜間戦闘機型が主力とともに執拗にアメリカ軍飛行場夜間攻撃し続けたが、見るべき戦果挙げることはできなかった。 月光の制式後の1943年レーダー八木アンテナ付)や斜銃装備した高性能丙戦として「試製電光」(S1A1)の開発愛知命じられたが、実戦配備早くて1945年頃予測されることから、同時に陸上爆撃機銀河」(P1Y1)に発動機換装レーダー(八木アンテナ付)や斜銃追加搭乗員燃料タンク削減といった改修加えることで丙戦化した試製極光」(P1Y2-S)の開発川西命じられている。また昭和19年初めには、銀河艦上爆撃機彗星」(D4Y2)、少し遅れて艦上偵察機彩雲」(C6N1)に斜銃追加した彩雲夜戦彗星夜戦(D4Y2-S)、銀河夜戦開発・配備進められていた。 このため月光生産1944年10月終了するが、これは月光性能不足のためというよりも昭和18年1943年初め頃に計画されていた三菱における局戦「雷電」の生産拡大に伴う零戦生産縮小や、1944年入って計画され中島における誉の生産拡大に伴う栄の生産縮小量産効率上のための生産機種絞り込み機体発動機とも)等が影響している。 海軍としては、配備数限定される丙戦試製電光の様な高性能機でなければ専用生産ライン割く余裕無く現用月光より多少高性能程度機体であれば機種からの転用済ませた方が合理的という方針があった。しかし、試製電光終戦まで試作機すら未完成試製極光予定性能達しなかったため開発中止になった1944年アメリカ軍により占領されマリアナ諸島から出撃するB-29による日本本土爆撃激化し始め時期がちょう月光生産終了時期重なり、しかも銀河夜戦彗星夜戦生産立ち上がり鈍かったため迎撃必要な夜間戦闘機数が不足し結局日本海軍月光代わる有力な後継機揃えることができず、終戦まで月光日本海軍主力夜間戦闘機として活躍することとなった

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制式後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 15:56 UTC 版)

一式陸上攻撃機」の記事における「制式後」の解説

最初に一式陸攻配備されたのは高雄空であり、1941年昭和16年7月25日24機が漢口進出し7月29日に6機で行なった宜昌西岸地区爆撃一式陸攻初陣 となった8月11日には零戦との初の協同作戦となる成都攻撃参加し零戦誘導行なった爆弾搭載能力は、前身九六式陸上攻撃機と変わらなかったが、速力上昇力に非常に優れ零戦随伴して飛行でき、七千メートル上の高度が取れ対空砲敵機圏外から爆撃が可能であった太平洋戦争開時、九六式陸攻協同して台湾からフィリピンアメリカ陸軍航空基地攻撃しB-17爆撃機を含む爆撃機兵力壊滅させている。また、やはり九六式陸攻協同してマレー沖でイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦レパルス」を撃沈するマレー沖海戦)など、太平洋戦争初期活躍したその後海軍陸攻隊の主力として主に南太平洋方面の対連合軍作戦従事したが、基本構造問題起因する防弾性能低さから、被害増大するようになった被害は特に雷撃時に顕著ミッドウェー海戦見られるように米軍機でも同様の傾向見られる)だったが、それなりの数の護衛戦闘機揃え、この規模爆撃機としては良好な高高度性能と、防御火力活かした高高度爆撃行えば損耗率を比較低く抑えることも可能だった。 しかし、戦力バランス大きく崩れ護衛戦闘機はおろか陸攻十分な出撃数を揃えることが出来なくなった大戦中盤以降は、戦術夜間爆撃夜間雷撃変更せざるを得なくなった。それでも、雷撃により、レンネル島沖海戦重巡洋艦シカゴ撃沈、他重巡2隻、駆逐艦1隻に損傷与え、他にもトラック島空襲の際に空母イントレピッド大破台湾沖航空戦でも重巡キャンベラ大破させるなどの戦果挙げている。 また、この時期ソロモン諸島ブイン連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将戦死した際の乗機としてもよく知られる海軍甲事件参照)。 大戦終盤特攻兵器桜花」の母機としても使用された。しかし、全重量2,270kgの桜花一式陸攻搭載量遥かに超過しており、飛行性能低下もたらした航続距離30%減、巡航速度170ノット314㎞/h)で約10%減、さらに運動性能低下著しかった。そのため軍令部は、一式陸攻強力な援護戦闘機付け必要性感じ桜花搭載した一式陸攻の4倍の護衛戦闘機付け計画であったが、1945年3月18日九州沖航空戦での桜花初陣では、野中五郎少佐指揮による一式陸攻18機(編隊長機3機は桜花搭載に対して最終的に随伴できた護衛機零戦32機にしか過ぎず護衛機蹴散らしF6Fヘルキャット桜花搭載して退避ままならない一式陸攻次々と撃墜され全滅している。 その後沖縄戦アメリカ軍占領した飛行場桜花鹵獲すると、潜在的な脅威認識し鹵獲した桜花本国送ってアメリカ技術航空情報センター徹底した調査が行われている。そこでは「人間という最高の制御誘導装置備えた潜在的に最も脅威となる対艦攻撃兵器である。」と評価されていくつかの桜花対策講じられたが、もっとも強調されたのは「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機最優先攻撃すること。」であり、一式陸攻アメリカ軍にとって最優先迎撃目標となった一方で日本軍も、第1回目攻撃失敗検証して対策講じ昼間一式陸攻大編隊による攻撃断念し主として薄暮及び黎明時に一式陸攻少数機が1 - 2機ずつに別れて出撃を行う戦術転換したその結果として迎撃分散され沖縄戦では桜花射程内までアメリカ艦隊接近できた一式陸攻増えて戦果少なからず挙がるようになった総合戦果、1隻撃沈 2隻大破除籍 1隻大破 3隻損傷)。しかし、アメリカ軍徹底した対策もあって、日本軍大きな期待を裏切る戦果終わりアメリカ軍桜花作戦全体に対して「この自殺兵器使用成功しなかった。」との総括をし、その原因としては「母機脆弱性制限要素となった。」と評している。 また終戦時には白色塗装の上緑十字描いた緑十字機」として、軍使乗機使用された。 後継機として、陸上爆撃機銀河」、十三陸上攻撃機深山」、十六陸上攻撃機泰山」(計画中止)、十八陸上攻撃機連山」、対潜哨戒機輸送機大洋」(計画中止)が開発された。

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