制式後
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月光の登場により、一時はB-17やB-24によるラバウルへの夜間爆撃を押さえ込むことに成功した。特に月光の斜銃で初の撃墜を記録した工藤の活躍が目覚ましく、月光で10機のB-17とB-24を撃墜したが、工藤は九八式陸上偵察機でも三式爆弾で2機の大型爆撃機を撃墜しており、合計12機の大型爆撃機の撃墜は日本海軍でもトップの戦果であった。しかし、戦力バランスが大きく連合国軍側に傾いてくると効率の悪い夜間爆撃はあまり行われなくなったため、ソロモン諸島や中部太平洋を巡る戦いでは月光は夜間迎撃より夜間偵察や敵基地等の夜間襲撃等に用いられることが多くなった。事実、この時期に月光に装備されたレーダーは対水上用のものである。小園は最初に下向き斜銃、次に上向き斜銃による敵機攻撃を発案したが、構想の比較的初期段階で下向き斜銃による敵機攻撃は現実的ではないとされ、敵機攻撃には上向き斜銃が使用されることとなった。にも拘らず月光の初期型に上向きと下向きの斜銃が2挺ずつ装備されているのは、敵機迎撃と並んで夜戦の重要な任務と考えられた敵基地などへの夜間攻撃では下向き斜銃の方が便利と考えられたためである。実際に月光による敵基地への攻撃も行われており、1943年7月8日に、遠藤が搭乗する月光がレンドバ島を攻撃して在地の舟艇や輸送船を銃撃を加えた。8月21日にはベララベラ島のアメリカ軍拠点を爆撃し、帰途にPTボートを銃撃して1隻を撃沈したと判断された。しかし、戦況の悪化に伴い敵基地襲撃より敵機迎撃の重要度が増してくると下向き斜銃を装備する意義は薄れ、後期型では上向き斜銃のみ装備となっている。 やがて戦局がさらに悪化すると、新型爆撃機B-29による日本本土空襲の懸念が高まったため、1944年3月1日に帝都防空のために第三〇二海軍航空隊が編成されて小園がその司令官となったが、第三〇二海軍航空隊にも月光は配備された。小園は早速手を回して遠藤を引っ張って、分隊長に任命した。さらに小園は1944年5月25日に、遠藤らを指揮する第302海軍航空隊第2飛行隊長に、第301海軍航空隊戦闘316飛行隊隊長を更迭されていた美濃部正大尉を任命したが、美濃部はB-29邀撃任務の指揮は遠藤に任せきりにして、自分の理想であった夜間戦闘機による夜襲部隊の編成に注力した。1944年7月4日に硫黄島と父島を襲撃したアメリカ軍機動部隊に対して、夜襲戦術を始めて活かす機会に恵まれ、美濃部は、7月5日未明に索敵に月光6機、攻撃隊として月光1機と零戦2機の3機小隊6個の合計18機(含む偵察機で24機)を出撃させた。しかし、本来はB-29の邀撃のための訓練をしてきた第302海軍航空隊の月光にとって、60㎏爆弾を2発搭載したうえで、速度が速い零戦を伴って夜間の洋上を進攻するのは大変な負担であった。結局、アメリカ軍機動部隊とは接触できずに、月光1機、零戦4機を損失したが、攻撃隊が向かっていたときにはすでにアメリカ軍機動部隊は父島近辺から離脱しており、初めから敵を発見できる可能性は皆無の出撃であった。唯一称えられるのは、出動命令とはいえ、不慣れで困難な任務に立ち向かった搭乗員の精神力だけという結果に終わってしまった。この攻撃直後に美濃部は在任わずか2か月弱で第302海軍航空隊第2飛行隊長から更迭された。この攻撃と同時期に、実質的に月光隊を指揮してきた遠藤は、3機の月光を率いて本来の任務であるB-29迎撃のために大村航空基地に派遣されており、この攻撃には出撃していなかった。8月20日に北九州に来襲したB-29を迎撃した遠藤は、撃墜確実2機、不確実1機、撃破2機の戦果を挙げる活躍を見せて軍内にその名を轟かせている。 1944年10月に開始されたフィリピンの戦いにも月光は投入された。第三〇二海軍航空隊を更迭された美濃部は、第一航空艦隊第一五三海軍航空隊戦闘901飛行隊の飛行隊長として月光7機を指揮し連日、夜間に来襲するB-24の邀撃任務に就いていたが、なかなか戦果を挙げることができなかった。美濃部は第1航空艦隊幕僚に「探照灯で敵を捕捉してさえくれれば、一撃のもとに撃墜してみせる」と強気な発言をし、その発言を実行するため、毎夜明け方まで自ら月光に搭乗して目標機となって、防空隊の探照灯訓練に協力していた。しかし、月光の専門である夜間迎撃戦闘では全く戦果は上がらず、逆に月光が爆撃で撃破されることが続いたため、美濃部は月光を日中の邀撃任務に出撃させることとした。1944年9月2日の白昼に美濃部の命令で三号爆弾を搭載した月光4機、零戦2機が出撃したが、美濃部は爆撃機に戦闘機が護衛についていることを全く想定しておらず、月光が来襲したB-24を攻撃する前に、護衛のP-38の20機が上空から襲いかかってきた。奇襲を受けた月光と零戦は慌てて三号爆弾を投棄すると、B-24の迎撃を諦めて離脱しようとしたが、零戦1機がたちまち撃墜され、月光1機も被弾して不時着水して機体と操縦士が失われた。美濃部は「これは大変なことになった」と考えて、自分から申し出た夜間戦闘機による昼間出撃をたった1回の出撃で断念せざるを得なくなった。再度夜間邀撃に戻った戦闘901飛行隊であったが、9月5日に夜間爆撃に来襲したB-24に、中川義正一飛曹が、体当たり(対空特攻)を敢行、幸運にも中川の月光は損傷しただけで無事帰還し、体当たりされたB-24はバランスを崩して墜落したが、この対空特攻がのちの特別攻撃隊の機運を盛り上げることになったと、のちに神風特別攻撃隊の編成に深く関与した第一航空艦隊主席参謀の猪口力平中佐は回想している。 美濃部は第302海軍航空隊で、月光をアメリカ軍機動部隊への夜襲に出撃させて失敗していたが、フィリピンにおいても月光をアメリカ軍艦隊への夜襲に使おうと目論んでおり、未明や黎明でのアメリカ軍機動部隊の哨戒を行っていたが、慣れない洋上の哨戒任務では月光は本領を発揮できず、9月10日には索敵中の月光3機を一挙にF6F ヘルキャットに撃墜されて6名の搭乗員が戦死している。9月21日には薄暮に索敵攻撃任務中の月光4機がアメリカ軍空母を攻撃し、250㎏爆弾1発の命中を報告し、月光1機が撃墜され、零戦1機も未帰還となり、この日をもって戦闘901飛行隊は壊滅状態に陥った(アメリカ軍側の記録では、1944年9月21日に該当する空母の被害なし)。機体の損失に加えて、搭乗員の損失が壊滅的であり、分隊長ら士官は全員戦死しパイロットも当初の1/3になるまで消耗してしまった。美濃部が思い立ち実践した月光によるアメリカ軍機動部隊への夜襲は、いずれも失敗に終わったのみでなく多大な損失を被っており、敵艦隊攻撃任務で月光を用いることの不利を如実に表していた。 フィリピンの戦いでは神風特別攻撃隊が初出撃し、海軍航空隊のあらゆる機体が特攻機として出撃させられていたが、月光も例外ではなく、1944年12月28日に神風特別攻撃隊月光隊として2機の月光が特攻出撃している。この日にはリバティ船の ジョン・バークとウィリアム・シャロンが特攻機の突入を受けて、なかでもジョン・バークは搭載していた弾薬が誘爆して一瞬で乗組員68名とともに轟沈している。 フィリピンで激戦が続くなか、月光は本土防空戦でも激戦を繰り広げていた。相手はこれまでのB-17やB-24を遥かに上回る性能のB-29となり、月光は夜間のみならず昼間も迎撃に出撃したが苦しい戦いを強いられた。そんな中で第302海軍航空隊の遠藤は、北部九州、東京、名古屋でB-29の撃墜数を増やし続け、1945年1月14日の最期の戦闘でB-29を1機撃墜、1機撃破して、B-29撃墜破数合計16機(うち撃墜は公認8機)を記録し、月光の名前を国民に知らしめて、国民的英雄となった。B-17やB-24には善戦した月光も、B-29に対しては速度が大きく劣後するなどまともに戦える性能ではなく、その月光で戦果を積み重ねる遠藤は、若い搭乗員らからは神がかって見えたという。 遠藤は、1945年1月14日の最期の戦闘でB-29からの攻撃で撃墜されて戦死したが、戦死後、全軍布告の上で遠藤は中佐に二階級特進し、正六位にも叙せられ、功三級金鵄勲章を追贈された。また、生前の功績により横須賀鎮守府司令長官塚原二四三中将から表彰状、防衛総司令官稔彦王大将から感状が授与された。遠藤の戦死は日本ニュースでも取り上げられ、全国の映画館で報じられたが、国民的英雄「B-29撃墜王」の最期は国民に大きな衝撃をあたえた。 その後、アメリカ軍は昼間の高々度爆撃の効果が無いと判断し夜間の焼夷弾爆撃に切り替え、命中精度を高める為にB-29を低空で進入させはじめた。これに対しては斜銃のみ装備により夜間迎撃する厚木基地に配備された月光はかなりの戦果を挙げており、横須賀航空隊の黒鳥四朗少尉-倉本十三上飛曹機の様に一晩で5機撃墜した例もある。この頃になるとかなりの数の月光に対航空機用レーダーが装備されていたが、搭乗員や整備員がレーダーの取り扱いに不慣れであったこと、レーダー自体の信頼性も低かったことなどから、実戦において戦果を挙げるまでには至らなかった。そして、占領された硫黄島からP-51が多数来襲するようになると、海軍の月光や、陸軍で月光と同様にB-29迎撃で活躍していた二式複座戦闘機「屠龍」といった鈍重な双発戦闘機の迎撃は困難となっていった。 沖縄戦においては、台湾の高雄に展開していた第一三三海軍航空隊が所属機の月光でしばしば沖縄のアメリカ軍飛行場を夜間攻撃している。フィリピンから撤退した美濃部が指揮官となっていた、同じ海軍航空隊の芙蓉部隊(生産中止となっていた月光に変えて艦上爆撃機「彗星」(D4Y2)の夜間戦闘機型が主力)とともに執拗にアメリカ軍飛行場を夜間攻撃し続けたが、見るべき戦果を挙げることはできなかった。 月光の制式後の1943年、レーダー(八木アンテナ付)や斜銃を装備した高性能丙戦として「試製電光」(S1A1)の開発が愛知に命じられたが、実戦配備は早くても1945年頃と予測されることから、同時に陸上爆撃機「銀河」(P1Y1)に発動機換装、レーダー(八木アンテナ付)や斜銃の追加、搭乗員と燃料タンクの削減といった改修を加えることで丙戦化した「試製極光」(P1Y2-S)の開発が川西に命じられている。また昭和19年初めには、銀河や艦上爆撃機「彗星」(D4Y2)、少し遅れて艦上偵察機「彩雲」(C6N1)に斜銃を追加した彩雲夜戦や彗星夜戦(D4Y2-S)、銀河夜戦の開発・配備も進められていた。 このため、月光の生産は1944年10月に終了するが、これは月光の性能不足のためというよりも昭和18年(1943年)初め頃に計画されていた三菱における局戦「雷電」の生産拡大に伴う零戦の生産縮小や、1944年に入って計画された中島における誉の生産拡大に伴う栄の生産縮小、量産効率向上のための生産機種の絞り込み(機体・発動機とも)等が影響している。 海軍としては、配備数の限定される丙戦は試製電光の様な高性能機でなければ専用の生産ラインを割く余裕は無く、現用の月光より多少高性能な程度の機体であれば他機種からの転用で済ませた方が合理的という方針があった。しかし、試製電光は終戦まで試作機すら未完成、試製極光は予定性能に達しなかったため開発中止になった。1944年にアメリカ軍により占領されたマリアナ諸島から出撃するB-29による日本本土爆撃が激化し始める時期がちょうど月光の生産終了時期と重なり、しかも銀河夜戦や彗星夜戦の生産立ち上がりも鈍かったため迎撃に必要な夜間戦闘機数が不足し、結局日本海軍は月光に代わる有力な後継機を揃えることができず、終戦まで月光は日本海軍の主力夜間戦闘機として活躍することとなった。
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制式後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 15:56 UTC 版)
最初に一式陸攻が配備されたのは高雄空であり、1941年(昭和16年)7月25日に24機が漢口に進出し、7月29日に6機で行なった宜昌西岸地区爆撃が一式陸攻の初陣 となった。8月11日には零戦との初の協同作戦となる成都攻撃に参加し、零戦の誘導を行なった。爆弾搭載能力は、前身の九六式陸上攻撃機と変わらなかったが、速力、上昇力に非常に優れ、零戦を随伴して飛行でき、七千メートル以上の高度が取れ、対空砲、敵機圏外から爆撃が可能であった。 太平洋戦争開時、九六式陸攻と協同して台湾からフィリピンのアメリカ陸軍航空基地を攻撃し、B-17爆撃機を含む爆撃機兵力を壊滅させている。また、やはり九六式陸攻と協同して、マレー沖でイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する(マレー沖海戦)など、太平洋戦争初期に活躍した。 その後、海軍陸攻隊の主力として主に南太平洋方面の対連合軍作戦に従事したが、基本構造の問題に起因する防弾性能の低さから、被害が増大するようになった。被害は特に雷撃時に顕著(ミッドウェー海戦に見られるように米軍機でも同様の傾向が見られる)だったが、それなりの数の護衛戦闘機を揃え、この規模の爆撃機としては良好な高高度性能と、防御火力を活かした高高度爆撃を行えば、損耗率を比較的低く抑えることも可能だった。 しかし、戦力バランスが大きく崩れ、護衛戦闘機はおろか陸攻も十分な出撃数を揃えることが出来なくなった大戦中盤以降は、戦術を夜間爆撃、夜間雷撃に変更せざるを得なくなった。それでも、雷撃により、レンネル島沖海戦で重巡洋艦シカゴを撃沈、他重巡2隻、駆逐艦1隻に損傷を与え、他にもトラック島空襲の際に空母イントレピッドを大破、台湾沖航空戦でも重巡キャンベラを大破させるなどの戦果を挙げている。 また、この時期にソロモン諸島ブインで連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将が戦死した際の乗機としてもよく知られる(海軍甲事件を参照)。 大戦終盤は特攻兵器「桜花」の母機としても使用された。しかし、全重量2,270kgの桜花は一式陸攻の搭載量を遥かに超過しており、飛行性能の低下をもたらした。航続距離は30%減、巡航速度は170ノット(314㎞/h)で約10%減、さらに運動性能の低下が著しかった。そのため軍令部は、一式陸攻に強力な援護戦闘機を付ける必要性を感じ、桜花を搭載した一式陸攻の4倍の護衛戦闘機を付ける計画であったが、1945年3月18日の九州沖航空戦での桜花の初陣では、野中五郎少佐指揮による一式陸攻18機(編隊長機3機は桜花未搭載)に対して、最終的に随伴できた護衛機の零戦は32機にしか過ぎず、護衛機を蹴散らしたF6Fヘルキャットに桜花を搭載して退避もままならない一式陸攻は次々と撃墜されて全滅している。 その後、沖縄戦でアメリカ軍は占領した飛行場で桜花を鹵獲すると、潜在的な脅威と認識し、鹵獲した桜花を本国に送ってアメリカ技術航空情報センターで徹底した調査が行われている。そこでは「人間という最高の制御、誘導装置を備えた、潜在的に最も脅威となる対艦攻撃兵器である。」と評価されていくつかの桜花対策が講じられたが、もっとも強調されたのは「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」であり、一式陸攻はアメリカ軍にとって最優先の迎撃目標となった。 一方で日本軍も、第1回目の攻撃失敗を検証して対策を講じ、昼間に一式陸攻の大編隊による攻撃を断念し、主として薄暮及び黎明時に一式陸攻少数機が1 - 2機ずつに別れての出撃を行う戦術に転換した。その結果として迎撃が分散され、沖縄戦では桜花射程内までアメリカ艦隊に接近できた一式陸攻も増えて戦果も少なからず挙がるようになった(総合戦果、1隻撃沈 2隻大破除籍 1隻大破 3隻損傷)。しかし、アメリカ軍の徹底した対策もあって、日本軍の大きな期待を裏切る戦果に終わり、アメリカ軍は桜花作戦全体に対して「この自殺兵器の使用は成功しなかった。」との総括をし、その原因としては「母機の脆弱性が制限要素となった。」と評している。 また終戦時には白色塗装の上、緑十字を描いた「緑十字機」として、軍使の乗機に使用された。 後継機として、陸上爆撃機「銀河」、十三試陸上攻撃機「深山」、十六試陸上攻撃機「泰山」(計画中止)、十八試陸上攻撃機「連山」、対潜哨戒機・輸送機「大洋」(計画中止)が開発された。
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