大戦中盤(1943年頃)
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「機甲師団」の記事における「大戦中盤(1943年頃)」の解説
従来に比較して定型化された1943年型と呼ばれる師団編成が規定された。2個大隊からなる1個戦車連隊及び2個装甲擲弾兵連隊が基幹となった(この頃からドイツ軍では歩兵のことを擲弾兵と呼ぶようになり、装甲部隊に付属する歩兵部隊は装甲擲弾兵と呼ばれるようになった)。その他の支援部隊は装甲砲兵連隊・装甲偵察大隊・戦車駆逐大隊・装甲工兵大隊・高射砲大隊等であった。ただし師団によっては一部の支援部隊を持たないケースも見られた。 武装親衛隊においても名実共に装甲師団が編成されるようになった(従来は内容は装甲師団同様でも装甲擲弾兵師団と呼ばれていた)。国防軍の装甲師団と比較して、装甲擲弾兵連隊が3個大隊編成であることが主な相違点である。また一部の師団は突撃砲大隊や重戦車中隊も保有していた。1943年10月22日付けでライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー、ダス・ライヒ、トーテンコープ、ヴィーキング、ホーエンシュタウフェン、フルンツベルク、ヒトラーユーゲントの各SS装甲擲弾兵師団が第1SS・第2SS・第3SS・第5SS・第9SS・第10SS、第12SSの装甲師団に改称されている。 陸軍一のエリート師団であるグロースドイッチュラント装甲擲弾兵師団も連隊規模の戦車部隊を装備して実質上は装甲師団となった。 空軍のヘルマン・ゲーリング師団が正式に装甲師団となった。1944年1月6日にはヘルマン・ゲーリング降下装甲師団に改名される。 ティーガー戦車の量産が本格化したが生産数は少なく、運用上の問題もあって一部のエリート師団を除いて装甲師団の編成には含まれず、大隊規模の重戦車部隊が組織された。 生産が始まったパンター戦車は装甲師団の主力として各戦車連隊の第1大隊に配備されることとなったが全ての師団において改編が行われたわけではなかった。III号戦車に代わって主力戦車となっていた IV号戦車は第2大隊に配備されることになった。 II号戦車やチェコ製の38(t)などの戦車としては使用に耐えない車輌は自走砲に改造され、長砲身化された突撃砲と共に戦車駆逐部隊が組織された。III号戦車の車台は突撃砲用としてのみ生産が続けられた。 フンメル・ヴェスペの実用化に伴い、砲兵部隊の一部が自走砲に変わった。 ソ連軍との戦闘で大損害を受け、戦力を失っていた第22装甲師団は1943年4月6日、第27装甲師団は1943年2月9日にそれぞれ解隊された。 アフリカで壊滅した第21装甲師団が1943年7月15日に再編された。なお同じくアフリカで壊滅した第10装甲師団は再編されず、再編された第15装甲師団は第15装甲擲弾兵師団に改編された。 1943年9月22日にノルウェイにてノルヴェーゲン装甲師団が編成された。 クルスクの戦いで大損害を受けた第18装甲師団は1943年10月19日に第18砲兵師団へと改編され、姿を消した。
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