大戦争と三国同盟戦争(1828年-1870年)
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「ウルグアイの歴史」の記事における「大戦争と三国同盟戦争(1828年-1870年)」の解説
こうして、かつてのバンダ・オリエンタルの領域のうち北東部の大部分はブラジル帝国に占領され続け、その地域はリオ・グランデ・ド・スル州の一部となりながらイギリスとブラジルの思惑により、人口74,000人の緩衝国家としてウルグアイは独立した。1830年7月18日に制定された1830年憲法では大統領の非常大権が認められ、実質的な初代大統領にはフルクトゥオソ・リベラ(スペイン語版)が選出された。ウルグアイ大統領は憲法で強力な権力を認められていたが、このことは内政の不安定要因となった。 ウルグアイが独立した際に、インディオは極少数が存在するのみだったが、彼等は新国家の安全保障の脅威と見られた。1831年にサルシプエデス川の虐殺(スペイン語版)で、ウルグアイ政府軍が先住民のチャルーア族を騙し討ちにして破り、ウルグアイにて民族集団としてのチャルーア族は絶滅した。 1835年3月にマヌエル・オリベ(スペイン語版)が大統領に就任したが、1836年1月にリベラはオリベ政権に反旗を翻し、1836年9月のカルピンテリアの戦い(スペイン語版)でオリベが白、リベラが赤の徽章を身につけたことから、同年オリベが大土地所有者、親アルゼンチン、親アルゼンチン連邦派による保守的な国民党(ブランコ党、白)を、リベラが都市中産階級、親ブラジル、親アルゼンチン統一派による自由主義的なコロラド党(赤)を結成した。当時フランスはラ・プラタ地域への進出を試み、その足掛かりとしてコロラド党を支援していたが、1838年3月にフランスがアルゼンチンのフアン・マヌエル・デ・ロサスに対してブエノスアイレス港を艦隊で封鎖したことは、ロサスやラバジェハといった連邦派と親しかったオリベ政権にそのままダメージとなり、結局このようなフランスの干渉政策によって1838年10月にオリベ政権はリベラに敗れ、崩壊した。 新たに成立した自由主義的なリベラ=コロラド党政権はアルゼンチン統一派の亡命者やフランスの支持が大きな成立の要素となったが、同時にアルゼンチン統一派の亡命政府もモンテビデオに樹立された。アルゼンチンのロサスは連邦派の立場からこれらを承認しなかったために、1839年2月にリベラ政権はアルゼンチン連合に宣戦布告し、大戦争(西: Guerra Grande、1839年 - 1851年)が勃発した。アルゼンチン統一派を主体とするリベラ軍はアルゼンチン北部のコリエンテス州、エントレ・リオス州に攻撃を加え、1842年6月にはロサスの政治に対してコリエンテス州、サンタフェ州がアルゼンチンからの独立を宣言したが、1842年10月にオリベとフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(スペイン語版)に指揮されたアルゼンチン軍が、エントレ・リオス州のアロヨ・グランデの戦い(スペイン語版)でウルグアイ軍(リベラ軍、ジュゼッペ・ガリバルディも参加)を破ると、以降の戦線はウルグアイ領内に移行した。1843年にはオリベ軍がモンテビデオを包囲(スペイン語版)し、1845年3月にインディア・ムエルタの戦い(スペイン語版)でオリベ軍が勝利するとリベラはブラジルに亡命した。ロサスと敵対するイギリス、フランスは、この事態を憂慮して1845年8月にアルゼンチンの港湾を封鎖することでコロラド党とアルゼンチン統一派を支援したが、ロサスの頑強な抵抗の前に1849年にイギリスが、1850年にフランスが撤退すると、後ろ盾を失ったコロラド党政権は風前の灯火となった。 しかし、1845年に反乱者に恩赦を与えることによってリオ・グランデ・ド・スル州のファラーポス戦争(スペイン語版)を終結させ、再度ラ・プラタ地域への進出を画策していたブラジルのペドロ2世はこの状況を快く思わず、エントレ・リオス州知事だったウルキーサを支援してロサスへの蜂起を手助けした。1851年5月にロサス体制によって窮乏するリトラル諸州の利害を代表したウルキーサは蜂起し、ウルグアイのモンテビデオを包囲していたブランコ党軍を攻撃してコロラド党政権を立て直すと、1852年2月3日にブエノスアイレス郊外のカセーロスの戦い(スペイン語版)でロサス軍を破り、アルゼンチン、ウルグアイ両国での自由主義者の勝利という形で戦争は幕を閉じた。この戦いでウルグアイはブラジルに大きな借りを負ったために、ウルグアジャーナ(スペイン語版、英語版)(現ウルグアイアーナ、リオグランデ・ド・スル州)をはじめとする、ウルグアイ北部のクアイレイム川流域の176,000km²をブラジルに割譲することとなった。 大戦争後も両党の抗争は続き、1854年にはコロラド党のベナンシオ・フローレス(スペイン語版)が大統領に就任したものの、翌1855年にフローレスはクーデターにより失脚し、1860年にはブランコ党のベルナルド・プルデンシオ・ベロ(スペイン語版)が大統領に就任した。しかし、アルゼンチンに亡命していたフローレスは、かつてブランコ党がロサスと同盟を結び、自由主義者を弾圧していたことを快く思わなかったアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ(英語版)大統領の支援を受けてウルグアイに侵攻し、伝統的にコロラド党と友好関係を築いていたブラジルもフローレスの侵攻を支援した。ベロ大統領はパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領に内政干渉からの助けを求め、ソラーノ・ロペスは一度はこれを断ったものの、翌1864年3月にブランコ党のアタナシオ・アギーレ(スペイン語版)が再度援助を要請し、さらに同年10月にソラーノ・ロペスの警告を無視してブラジル軍が直接ウルグアイに侵攻すると、同年12月にソラーノ・ロペスはこれを受け入れてブラジルに宣戦布告した。 緒戦においてパラグアイ軍はコリエンテスを攻略し、さらにウルグアジャーナ(スペイン語版、英語版)までに至る破竹の進撃を続けたが、アルゼンチン連邦派をまとめていたカウディージョ、フスト・ホセ・デ・ウルキーサ(スペイン語版)がロペスとの間に結んだ反乱の密約を反古にしたためアルゼンチンに宣戦布告せざるをえなくなり、さらにウルグアイでも1865年に2月にブランコ党政権がコロラド党と講和したために、再びフローレス政権が誕生した。1865年5月1日にブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの三国同盟が結ばれると、三国同盟相手の戦争をせざるを得なくなったソラーノ・ロペスに勝機はなくなった。戦争は5年間の続き、1870年1月に敗走中のソラーノ・ロペスがセロ・コラーの戦い(英語版)で戦死したことによって終結した。戦勝国となったアルゼンチンとブラジルはパラグアイから領土、労働力、政治的権利を分配したが、従属的な立場でこの戦争に参戦したウルグアイがパラグアイの崩壊と引き換えに得たものは何もなかった。 教育においては、共和国大学(1849)が設立されている。
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