大戦争と三国同盟戦争とは? わかりやすく解説

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大戦争と三国同盟戦争(1828年-1870年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/04 16:41 UTC 版)

ウルグアイの歴史」の記事における「大戦争と三国同盟戦争(1828年-1870年)」の解説

こうして、かつてのバンダ・オリエンタル領域のうち北東部大部分ブラジル帝国占領され続け、その地域リオ・グランデ・ド・スル州一部となりながらイギリスブラジル思惑により、人口74,000人の緩衝国家としてウルグアイ独立した1830年7月18日制定され1830年憲法では大統領非常大権認められ実質的な初代大統領にはフルクトゥオソ・リベラ(スペイン語版)が選出された。ウルグアイ大統領憲法強力な権力認められていたが、このことは内政の不安定要因となったウルグアイ独立した際に、インディオ極少数が存在するのみだったが、彼等新国家安全保障脅威見られた。1831年にサルシプエデス川の虐殺スペイン語版)で、ウルグアイ政府軍先住民チャルーア族騙し討ちにして破りウルグアイにて民族集団としてのチャルーア族絶滅した1835年3月にマヌエル・オリベ(スペイン語版)が大統領就任したが、1836年1月リベラオリベ政権反旗を翻し1836年9月のカルピンテリアの戦いスペイン語版)でオリベが白、リベラが赤の徽章を身につけたことから、同年オリベ大土地所有者、親アルゼンチン、親アルゼンチン連邦派による保守的な国民党ブランコ党、白)を、リベラ都市中産階級、親ブラジル、親アルゼンチン統一派による自由主義的なコロラド党(赤)を結成した当時フランスラ・プラタ地域への進出試み、その足掛かりとしてコロラド党支援していたが、1838年3月フランスアルゼンチンフアン・マヌエル・デ・ロサスに対してブエノスアイレス港を艦隊封鎖したことは、ロサスやラバジェハといった連邦派と親しかったオリベ政権そのままダメージとなり、結局このようなフランス干渉政策によって1838年10月オリベ政権リベラ敗れ崩壊した新たに成立した自由主義的なリベラコロラド党政権アルゼンチン統一派の亡命者フランス支持大きな成立要素となったが、同時にアルゼンチン統一派の亡命政府モンテビデオ樹立された。アルゼンチンロサス連邦派の立場からこれらを承認しなかったために、1839年2月リベラ政権アルゼンチン連合宣戦布告し大戦争(西: Guerra Grande1839年 - 1851年)が勃発したアルゼンチン統一派を主体とするリベラ軍はアルゼンチン北部コリエンテス州エントレ・リオス州攻撃加え1842年6月にはロサス政治に対してコリエンテス州サンタフェ州アルゼンチンからの独立宣言したが、1842年10月オリベとフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(スペイン語版)に指揮されアルゼンチン軍が、エントレ・リオス州のアロヨ・グランデの戦いスペイン語版)でウルグアイ軍リベラ軍、ジュゼッペ・ガリバルディ参加)を破ると、以降戦線ウルグアイ領内移行した1843年にはオリベ軍がモンテビデオ包囲スペイン語版)し、1845年3月にインディア・ムエルタの戦いスペイン語版)でオリベ軍が勝利するリベラブラジル亡命したロサス敵対するイギリスフランスは、この事態憂慮して1845年8月アルゼンチン港湾封鎖することでコロラド党アルゼンチン統一派を支援したが、ロサス頑強な抵抗前に1849年イギリスが、1850年フランス撤退すると、後ろ盾失ったコロラド党政権風前の灯火となった。 しかし、1845年反乱者に恩赦与えることによってリオ・グランデ・ド・スル州のファラーポス戦争スペイン語版)を終結させ、再度ラ・プラタ地域への進出画策していたブラジルペドロ2世はこの状況快く思わず、エントレ・リオス州知事だったウルキーサを支援してロサスへの蜂起手助けした1851年5月ロサス体制によって窮乏するリトラル諸州の利害代表したウルキーサは蜂起しウルグアイモンテビデオ包囲していたブランコ党軍を攻撃してコロラド党政権立て直すと、1852年2月3日ブエノスアイレス郊外のカセーロスの戦いスペイン語版)でロサス軍を破りアルゼンチンウルグアイ両国での自由主義者勝利という形で戦争幕を閉じた。この戦いでウルグアイブラジル大きな借り負ったために、ウルグアジャーナ(スペイン語版英語版)(現ウルグアイアーナ、リオグランデ・ド・スル州)をはじめとするウルグアイ北部のクアイレイム川流域176,000km²をブラジル割譲することとなった大戦争後も両党の抗争続き1854年にはコロラド党のベナンシオ・フローレス(スペイン語版)が大統領就任したものの、翌1855年フローレスクーデターにより失脚し1860年にはブランコ党のベルナルド・プルデンシオ・ベロ(スペイン語版)が大統領就任した。しかし、アルゼンチン亡命していたフローレスは、かつてブランコ党ロサス同盟を結び、自由主義者弾圧していたことを快く思わなかったアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ(英語版大統領支援受けてウルグアイ侵攻し伝統的にコロラド党友好関係築いていたブラジルフローレス侵攻支援したベロ大統領パラグアイフランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領内政干渉からの助け求め、ソラーノ・ロペスは一度はこれを断ったものの、翌1864年3月ブランコ党のアタナシオ・アギーレ(スペイン語版)が再度援助要請し、さらに同年10月にソラーノ・ロペスの警告無視してブラジル軍直接ウルグアイ侵攻すると、同年12月にソラーノ・ロペスはこれを受け入れてブラジル宣戦布告した緒戦においてパラグアイ軍コリエンテス攻略し、さらにウルグアジャーナ(スペイン語版英語版)までに至る破竹進撃続けたが、アルゼンチン連邦派まとめていたカウディージョ、フスト・ホセ・デ・ウルキーサ(スペイン語版)がロペスとの間に結んだ反乱密約反古したためアルゼンチン宣戦布告せざるをえなくなり、さらにウルグアイでも1865年2月ブランコ党政権コロラド党講和したために、再びフローレス政権誕生した1865年5月1日ブラジルアルゼンチンウルグアイ三国同盟結ばれると、三国同盟相手戦争をせざるを得なくなったソラーノ・ロペスに勝機なくなった戦争5年間の続き1870年1月敗走中のソラーノ・ロペスがセロ・コラーの戦い英語版)で戦死したことによって終結した戦勝国となったアルゼンチンブラジルパラグアイから領土労働力政治的権利分配したが、従属的な立場でこの戦争参戦したウルグアイパラグアイ崩壊引き換え得たものは何もなかった。 教育においては、共和国大学(1849)が設立されている。

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