大戦中の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 10:01 UTC 版)
「メトロヴィック F.2」の記事における「大戦中の開発」の解説
メトロヴィック社のデイヴィッド・スミス技師らは、1939年からベティの発展型 B.10 を基にした実用モデルの開発に着手した。これは9段軸流圧縮機とアニュラー型燃焼器、独立パワーリカバリタービンを持つ二重反転軸流式ターボプロップだったが、同年春にホイットルが WU の20分間の連続全開試験に成功し、軍需省の予算を得て実用モデル W.1(後にグロスター E.28/39 に搭載されて世界で2番目のジェット推進機になる)の製作にかかると、グリフィスとスミスは複雑なターボプロップ案を放棄し、Anne, Ruth, Betty, Doris に続く第5案の単軸純ジェット版 Freda(フリーダ)の完成を急いだ。 メトロポリタン=ヴィッカース製フリーダ2型、即ちメトロヴィック F.2 の初号機は1941年11月に初火入れされたが、コンプレッサ・ロックや燃焼器の溶解、タービン動翼の飛散、軸の振動などの技術的課題の解決に手間取り、その実機モデル F.2/1 は四発重爆撃機アブロ ランカスター (Avro Lancaster) に吊下されて1943年6月から、量産試作型は連合国側初のジェット戦闘機グロスター ミーティア (Gloster Meteor) の試作機に積まれて同年11月から、ようやく飛行試験を開始した。 事前の予測通り F.2 はホイットルの W.2 より遥かに強力で、W.2 の静止推力が 1,600 lbf (7.11 kN = 735 kgf) 内外に留まっていたのに対し、F.2 はいきなり 1,800 lbf (8 kN = 830 kgf) を発揮し、間もなく 2,000 lbf (8.9 kN = 920 kgf) を越えたが、依然として不安定さに苛まれていた。 タービン部に新耐熱金属を投入し、燃焼器を改良した F.2/2 は1942年8月から試験開始して 20% の出力向上を見たが、依然として熱歪・振動問題が付いて回り、耐久性にも欠けていた。このためアニュラー型燃焼器を排し、ホイットル型の二重カン式燃焼器に代えた F.2/3 が1943年一杯並行して試験され、2,700 lbf (12.0 kN = 1,240 kgf) に達したため、後者が基本型に選ばれた。 同時期、ドイツ空軍が F.2 と同じ軸流式ターボジェットエンジンのユンカース ユモ 004 と BMW 003 を相次いで実戦投入し、搭載機メッサーシュミット Me262 等の圧倒的優速と高空性能が連合国軍に熾烈な衝撃と脅威を与えており、ホイットルの W.2 、グリフィスの F.2 は共に、ドイツに対する技術開発の立ち遅れが明白化した。 W.2 の最終発展型ロールス・ロイス ダーウェント (Rolls-Royce Derwent) が 2,450 lbf (10.9 kN = 1,130 kgf) で実用化に漕ぎ着けた頃、圧縮器を10段にした増力型 F.2/4 ベリル (Beryl) は 4,000 lbf (17.8 kN = 1,840 kgf) を発揮していたが、依然として安定性・耐久性の欠如に苦しみ、またこの大出力エンジンの搭載に適した大型ジェット戦闘機の計画も無かった。 F.2/4 ベリルはサンダース・ロー SR.A/1 (Saunders-Roe SR.A/1) 試作水上戦闘機に搭載され、戦後の1947年に初飛行したものの、SR.A/1 計画は2機のみでキャンセルされてしまい、16年前にホイットルが予言した通り、軸流式のメトロヴィック F.2 は遂に第二次世界大戦に間に合わなかった。
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