大戦中の活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:17 UTC 版)
「5500トン型軽巡洋艦」の記事における「大戦中の活躍」の解説
緒戦時には水雷戦隊旗艦や軽巡洋艦部隊として各地の攻略作戦に参加している。太平洋戦争においては戦前に想定されたような主力艦同士の砲撃戦による艦隊決戦は生起せず、航空機中心の戦いとして推移した。しかし、航空優勢が確保できない日本軍においては、高速艦艇を用いた島嶼への夜間強行輸送作戦や、米軍の上陸地点への夜襲作戦が頻繁に実施され、この任務に水雷戦隊が駆り出されることになった。5500トン型の各艦は、これを阻止しようとする米国海軍水上部隊との間で死闘を繰り広げた。その後、水雷戦隊の旗艦任務は最新鋭の阿賀野型軽巡洋艦に譲り、徐々に後方任務に就くようになる。機動部隊の護衛から輸送まで幅広い任務に就いた本型は、「北上」を除いて全てが終戦までに戦没している。 球磨は主に南西方面にあり、物資や人員の輸送に活躍した。 木曾、多摩は開戦時北方部隊の第5艦隊に所属、北洋の警備に当たった。アリューシャン攻略作戦、キスカ撤収作戦に参加している。キスカ撤収後は南方に活躍の舞台を移した。 大井、北上の2艦は重雷装艦として待機していたが、艦隊決戦は起こらず、活躍の機会はなかった。その後魚雷発射管の一部を降ろし、高速輸送艦として南方での輸送任務に活躍した。北上は大戦末期に更に回天搭載艦に改造されたが、こちらも出撃の機会はなかった。北上は5,500トン型軽巡洋艦の唯一の生き残りとなった。 長良は空母直衛部隊の第10戦隊に所属し、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦などに参加、その後は兵員輸送などに活躍した。 五十鈴は損傷修理を機に防空巡洋艦に改装され、対潜掃討部隊である第三一戦隊の旗艦となった。レイテ沖海戦には機動部隊の一艦として空母の護衛に参加。その後は輸送任務に従事した。 由良と鬼怒は潜水戦隊旗艦であったが、潜水艦を率いた艦隊決戦は起こらなかった。由良は緒戦の南方攻略作戦に参加ののち、第4水雷戦隊旗艦としてソロモン方面へ進出したが、米軍航空機の攻撃により戦没した。鬼怒は南西方面にあり、同方面の各地への輸送任務に活躍した。 名取、阿武隈と川内型の3艦は水雷戦隊旗艦として開戦を迎えた。阿武隈は第1水雷戦隊旗艦として南雲艦隊の空母を護衛し、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦等に参加している。その後はキスカ撤収作戦に参加、レイテ沖海戦で戦没する最後まで第1水雷戦隊旗艦として活躍した。 名取は1942年(昭和17年)に第2南遣艦隊第16戦隊に編入。南西方面、後に中部太平洋方面での輸送任務に活躍した。 川内、神通は米軍のガダルカナル島での反抗が始まるとソロモン方面へ進出、それぞれブーゲンビル島沖海戦とコロンバンガラ島沖海戦で敵艦隊と交戦、沈没した。 那珂は米潜水艦の雷撃により損傷、1年ほど戦列をはなれ、その後にトラック空襲で戦没している。
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