大戦前夜
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「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事における「大戦前夜」の解説
バルト艦隊 は、軍事行動の開始とともに、1912年6月17日付けで作成された「ヨーロッパ戦争発生時における海軍の作戦プラン」に従って再編された。これに従い、艦隊の主要軍事任務は予め準備を整えた海域での戦闘によって敵のフィンランド湾への侵入を防ぐということであった。この任務の遂行のため、防衛海域が湾の狭まった箇所に設定され、ノルゲン島=ポルカルラウト岬線は中央機雷火砲戦域、ポルカルラウト岬=トヴェルミネ線は側面多島海戦域と名付けられ、ムフ海峡 には沿岸砲部隊が置かれた。 このバルト海海軍 のプランの実施とともに、艦隊では戦時体制となる戦術合同部隊が設置された。リューリクは艦隊直属となり、その艦上には艦隊司令官旗が翻った。リューリクの直衛として、当時最新型の艦隊水雷艇であったノヴィークが指名された。実戦部隊は、4 隻の戦列艦からなる戦列艦戦隊、4 隻の装甲巡洋艦からなる巡洋艦戦隊、第1・第2艦隊水雷艇隊からなる第1水雷分艦隊、母艦と工作艦を含む輸送船分遣隊からなっていた。ほかに、中央機雷火砲戦域および汎用予備役の防備部隊、多島海戦域の防備部隊、各戦域間を繋ぐ観測・通信部隊、後方勤務部隊が編成された。
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大戦前夜
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詳細は「アメリカ極東陸軍#戦力の実態」を参照 日米関係の悪化を受け、1941年9月1日よりフィリピン陸軍の動員が開始された。12月15日編成完了を目途に、10個管区でそれぞれ1個師団の動員が進められたものの、開戦時点で、各師団の動員状態は2/3が進行した程度であり、動員済みの部隊も装備や訓練は不完全だった。 各師団は3個歩兵連隊と2個砲兵大隊、対戦車砲大隊などから構成されるはずだったが、訓練まで終えたのは各1個歩兵連隊程度に過ぎなかった。例えば、11月18日に誕生した第31師団の場合、隷下の第31歩兵連隊は9月1日に動員済みだったものの、2番目の第32歩兵連隊(11月1日動員)は師団戦列に合流したのが12月6日、3番目の第33歩兵連隊に至っては11月25日にようやく動員着手という具合であった。最初の砲兵大隊である第31砲兵大隊の動員着手は開戦後の12月12日で、2個の砲兵大隊が揃ったのはバターン半島での籠城戦の最中だった。対戦車砲大隊は編成されないままに終わった。 兵器や弾薬の不足も著しかった。これもフィリピン陸軍第31師団の例で見ると、分隊支援火器のはずのブローニングM1918自動小銃は1個中隊に1丁、師団砲兵用の75mm野砲は照準器が無い8門だけが配備された。小銃と重機関銃はそれなりに数が揃っていたが、旧式のブローニングM1917重機関銃(各機関銃中隊に8丁)とスプリングフィールドM1903小銃だった。弾薬不足は訓練にも影響し、9月に動員された第31歩兵連隊が最初の実弾射撃訓練をしたのは11月24日という有様だったが、実弾射撃経験無しで実戦投入された他の多くのフィリピン陸軍部隊よりは恵まれていたという。 また、フィリピン陸軍の沿岸警備部隊はイギリス製の魚雷艇36隻の配備を計画していたが、第二次世界大戦の勃発でイギリスからの輸入は2隻のみしか実現しなかった。代わって現地生産が試みられたが、1隻完成しただけだった。 このほか、フィリピン陸軍兵士に軍事教育を施すときには、言葉の壁も問題となった。教官となったアメリカ人兵士は英語しか解さず、フィリピン・スカウト出身者などの幹部はタガログ語を使い、同じフィリピン人でも一般兵士は出身地域ごとの言語を話した。それでも、次第に信頼関係は出来ていったという。
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