大戦前年の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 14:50 UTC 版)
「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事における「大戦前年の活動」の解説
翌1913年は、リューリクの乗員にとってさらに集中的な軍事訓練の期間となった。活動は早くも4月1日に始められ、4月19日にはアンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌイ、インペラートル・パーヴェル1世、ツェサレーヴィチとともにレーヴェリへ出航して機関試験を行った。クロンシュタットへ戻ると、リューリクはツェサレーヴィチとともに船渠入りして喫水線下部分の船体の補修と再塗装が施された。工事は5月8日まで続けられ、その後レーヴェリへ渡って戦隊に合流した。 6月を通じ、リューリクは戦列艦隊とともに、対巡洋艦隊、対水雷艇隊、対演習砲撃分遣隊との演習に従事した。7月4日には、皇帝ニコライ2世が海軍大臣のグリゴローヴィチ海軍大将とともにレーヴェリのリューリクへ視察に訪れた。リューリクは、皇帝の旗を掲げて午前9時15分に碇を上げ、後ろにアンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌイとインペラートル・パーヴェル1世を引き連れてレーヴェリから出港した。演習場にて、リューリクは艦隊水雷艇フサードニクに曳航された標的を正確に射撃した。この日のことを、グリゴローヴィチ海軍大臣から「射撃は卓越して素晴らしく、陛下におかれてはたいへんに満足されていた」と日記に記している。その後、艦隊では昼食が取られた。昼食後、演習は第1・3・4艦隊水雷艇隊の雷撃を戦列艦が対水雷艇砲による綿密な射撃で見事に撃退するという腕前を発揮した。半日に及ぶ演習は午後1時10分に終了し、艦隊はレーヴェリへ帰港した。リューリクの砲手らは、この日は射撃の腕前が他艦より抜きん出ていることを披露こそできなかったものの、皇帝は大いに満足して水兵らに感謝の意を表して、皇室ヨット・シュタンダールトに乗ってレーヴェリを後にした。 7月22日には、リューリクはツェサレーヴィチとともにクロンシュタットに渡り、S・O・マカーロフ海軍中将の記念碑の除幕式に参加した。8月18日から21日にかけては、国際関係の緊張に対応するため、バルト海軍の演習が実施された。そこでは、さまざまな艦種を用いた機動訓練が行われた。無炎航海術、水雷艇撃退術、掃海術などの訓練も行われた。また、ハンコ半島とゲリシンクフォールスのあいだの多島海においての航海訓練も実施された。しかし、この夏の3ヶ月のあいだにほとんど休みなく続けられた軍事演習のために水兵らは大いに疲弊し、そのため事故や負傷者も発生した。
※この「大戦前年の活動」の解説は、「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の解説の一部です。
「大戦前年の活動」を含む「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事については、「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の概要を参照ください。
- 大戦前年の活動のページへのリンク