大戦前期
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「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「大戦前期」の解説
「シュリーフェンプラン」に基づいてドイツ軍は西部戦線を主戦場とし、ベルギーを通過して北フランスに進撃した。一方東部ではロシア帝国陸軍(ru)が迅速に動員準備を完了させて東プロイセンへ攻め込んできたが、パウル・フォン・ヒンデンブルク大将とエーリヒ・ルーデンドルフ少将率いる第8軍がこれを撃退した(タンネンベルクの戦い)。しかしこの際に参謀総長の小モルトケは二個軍団を西部戦線から引き抜いて東部戦線へ送った。結果「シュリーフェンプラン」が求める西部戦線の右翼の強化がうまくいかなくなり、9月5日から9月10日にかけての連合軍の反撃(第一次マルヌ会戦)においてドイツ軍の侵攻は停止してしまった。ドイツに迅速なる勝利を約束するはずだった「シュリーフェンプラン」は早々に挫折した。 ヴィルヘルム2世は小モルトケを更迭し、代わって1914年11月3日付けでプロイセン陸相エーリッヒ・フォン・ファルケンハインを参謀総長に任じた。ファルケンハインはさしあたってドイツ軍をヴェルダン・リーム・ノヨンの線まで後退させた。ファルケンハインは宰相ベートマンに対して「この戦争が望ましい結果に終わる事は疑いないが、それがいつ、どこで、どんな形で達成されるかは現状全く予想できない」と述べている。 1914年クリスマスまでには西部戦線は膠着状態となった。当時の兵器水準では防御のほうが攻撃に勝ったため、大量の戦死者が発生する塹壕戦などの消耗戦になった。戦線がなかなか動かなかったため、ベルギーの大部分と北フランスの主要な工業地帯は大戦中ドイツ軍が占領し続けた。 ヒンデンブルクとルーデンドルフの指揮する東部戦線も苦戦していた。オーストリア軍がレンベルクの戦い(de)でロシア軍に敗れてガリツィア方面は危機に陥った。ポーランドでもロシア軍と中央同盟国(ドイツ・オーストリア)の一進一退の膠着状態が続いた。ヒンデンブルクやルーデンドルフは東部戦線の増強を求めたが、参謀総長ファルケンハインはなおもシュリーフェンプランの伸翼作戦を実行すれば西部戦線を打開できると信じていたので応じなかった。ヴィルヘルム2世は東部戦線増強派と西部戦線増強派の論争を見守るだけだったが、1915年7月2日のポーゼンでの御前会議ではファルケンハインを支持して東部戦線での大作戦に反対した。 開戦後イギリスはドイツ経済を締め上げるために海上封鎖を開始した。戦争1年目はドイツが物資の面で十分に準備していた事もあって大きな食糧困難は発生しなかったが、年を経るごとにドイツの食糧事情が悪化することは明らかだった。ドイツはイギリスの食糧事情も悪化させようとイギリス周辺海域の船を全て潜水艦Uボートによって沈めるという「無制限潜水艦作戦」を開始した。しかしこれはアメリカ国民やアメリカ船籍が巻き添えを食うとして中立国アメリカ合衆国の反発を招いた。アメリカの抗議に応じてドイツ政府は1915年8月に今後は無警告で客船を撃沈しないことを約束した。ついで9月にはアメリカ船舶が攻撃を受ける可能性を減少させるために英仏海峡やその西側からUボートを引き上げた。無制限潜水艦作戦は特に宰相ベートマンが反対していた。ベートマンはアメリカを強国と認識し、アメリカ参戦だけは回避せねばならないと考えていた。対して軍部はアメリカを軍事小国と過小評価していた。海軍大臣ティルピッツはなおも無制限潜水艦作戦が勝利の切り札であると主張し続けたため、ヴィルヘルム2世は宰相ベートマンの進言を受け入れて1916年3月にティルピッツを解任した。 3B政策やドイツ人軍事顧問採用などかねてから親独的だったオスマン帝国は1914年10月29日にロシア軍に攻撃を開始し中央同盟国側(ドイツ側)で参戦した。これは戦争前期のドイツ外交の成功の一つであった。オスマンの参戦でブルガリア王国の重要性が増し、連合国陣営と中央同盟国陣営はそろってブルガリアを自陣営に引きこもうと必死になったが、結局ブルガリアは1915年9月にドイツと同盟して中央同盟国側で参戦した。 1915年4月末にイープルにおいてドイツ軍が初めて新兵器毒ガス(塩素ガス)を戦場で大量使用した。連合軍も直ちに塩素ガスを毒ガス兵器として使用するようになった。以降両陣営での毒ガス兵器の使用が恒常化し、ホスゲンガス、ジホスゲンガス、そしてついには無色無臭のマスタードガスが開発されて戦場は地獄と化した。一次大戦において両陣営が使用した砲弾の4分の1は毒ガスを詰めた化学砲弾であったといわれている。 1915年末からファルケンハインは本格的に西部戦線に重点を移し、1916年2月にヴェルダンの戦いを開始した。 1915年、東部戦線の前線視察に訪れたヴィルヘルム2世。出迎える第11軍司令官アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥。 1916年、ヴェルダン近くの野戦病院に入院する戦傷者を見舞うヴィルヘルム2世。 中央同盟国の4君主。左からドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、オスマン帝国皇帝メフメト5世、ブルガリア国王フェルディナント
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