第11軍司令官
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その後、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣そして東條内閣と続き、東條内閣によって、日本は太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。 大本営と支那派遣軍は、重慶政府に大打撃を与えて日中戦争の解決の目処をつけるため、中国軍が不陥と誇ってきた長沙への侵攻を計画した。ところが、6月独ソ戦の勃発による「関特演」への兵力転用や、日米交渉の難航による南方作戦準備が問題になるにつれ、大本営や陸軍省では長沙進攻中止論が台頭していたが、阿南は引き続き周到な作戦準備を行った。長沙には精強を誇る第9戦区軍司令部(司令長官:薛岳)があり、阿南はこの撃破を目論見、東部萬洋山系の側面陣地を撃破して長沙に進攻しようと計画していたが、作戦を認可した参謀本部は中央突破の作戦を命じた(第一次長沙作戦)。 第11軍は歩兵45個大隊の大兵力で長沙を目指して進軍したが、阿南の懸念した通り東部萬洋山系の側面陣地から戦力に勝る中国軍の攻撃を受けて苦戦を強いられた。それでも第11軍は多数の中国軍部隊を撃破しつつ長沙に達した。激戦のうえで長沙を占領した第11軍であったが、阿南は市街に突入させる部隊を最小限に抑えて、市街地の破壊や食料物資の略奪を厳禁した。阿南は略奪行為の厳禁を命じた意図を支那派遣軍総司令官畑に「一般民家を焼却すれば却って民心の離反を招くから」と説明している。作戦目的は中国軍に打撃を与えることであり、第11軍は主敵であった第74軍を撃破、54,000人の遺棄死体を確認、4,200人の捕虜と大量の兵器弾薬を獲得するといった大戦果を挙げた一方で、長沙市街の軍事拠点は既に爆撃などで撃破されて戦略的価値が低かったことから、作戦目的は達したとして阿南は長沙からの反転を命じた。そのため、中国軍は「長沙は未だに占領されず」と内外に喧伝し、また、第11軍が長沙で戦っているころに、中国軍主力15個師団は宜昌に大攻勢をかけており、結局、作戦目的であった中国軍の弱体化を達成することはできなかった。 第一次長沙作戦で中国軍に大打撃を与えつつも作戦目的は果たせなかった阿南は機会をうかがっていたが、太平洋戦争が開戦した12月8日、香港攻略作戦を開始した華南の第23軍の背後を衝くため中国軍(第4軍・暫編第2軍)が、長沙付近から広東方面への南下を開始したのを知って、第11軍は、すぐさま中国軍の南下を牽制する作戦が検討され、木下勇参謀長から作戦説明を受けた阿南軍司令官は第二次長沙作戦を即断し、第11軍独断で作戦を開始した。 第11軍の3個師団10万人は、退却を開始した中国軍を追って無人の野を進むが如く急速で進撃を続けた。阿南は前回長沙を放棄したことを悔やんでおり、今回は長沙を占領確保するつもりであった。しかし、中国軍の撤退は「退却攻勢」作戦で、長沙では30万人の中国軍が待ち構えていたが、それに対して第11軍は急遽の作戦開始で3個師団の連携も取れておらず、兵站も不十分であった。先行する第3師団加藤大隊の加藤素一少佐が偵察中に戦死し、携行していた作戦計画命令書を中国軍に奪取されて、第11軍の弾薬が不十分であることが露見するといった不幸も重なって、罠に飛び込んだ形となった第11軍ではあったが、それでも第6師団は猛進して、長沙まで到達した。しかし前回とは打って変わり、長沙は堅牢に陣地化されており、第6師団は突撃を繰り返すも容易に城壁外のトーチカを突破できず、また、第3師団も長沙への攻撃を開始したが、第6師団同様に城壁を突破できず、逆に戦力が勝る長沙守備隊から数十回にも及ぶ逆襲を受けて防衛戦を強いられた。2個師団が長沙攻略に手間取っている間に、背後から中国軍30個師団が迫ってきて包囲されてしまった。残る第40師団も長沙の45㎞手前で優勢な中国軍に包囲されており、第11軍は苦境に立たされた。作戦開始以降強気な作戦指導を行い、泰然自若な態度で幕僚らを慰撫激励してきた阿南も、戦況が激変したことで憂いが濃くなり、強行突破による敵主力撃滅の作戦方針を転換して、反転し敵の薄弱部を突破しての撤退を命じた。 3個師団は、圧倒的多数の中国軍相手に戦闘しながらの撤退を余儀なくされて多くの損害を被り、この作戦による日本軍の損害は戦死1,591人、戦傷4,412人にも上ったが、各師団は厳しい戦況のなかでも敢闘し中国軍にも打撃を与えて遺棄死体約28,612人を確認し、捕虜1,065人を得ている。中国側が長沙会戦と呼んだこの戦いは、日本軍に対する連合国軍最初の勝利として重慶政府は大いに喧伝したが、中国軍自身は、数倍の戦力を揃えて周到に包囲作戦を準備していたにも関わらず、第11軍を取り逃がしたことについて「すこぶる遺憾」と厳しい評価をしている。さらに、香港は日本軍が占領し、この中国軍の勝利は戦略的には大きな意味は持たなかった。第11軍が準備不足で作戦を開始し、結果的に優勢な敵相手に撃退された形となったことに、支那派遣軍総司令官畑は批判的であったが、重慶政府が戦略的にも政治的にも長沙を最重要視していることを再認識させられている。 第二次長沙作戦の敗北は、阿南が第109師団長時代、山西軍や八路軍相手に積極的な攻勢で完勝した成功体験を踏襲して招いたという指摘もあるが、圧倒的に戦力が勝る中国軍に対して、味方の劣勢を承知で敢て中国軍主力12個軍を牽制して足止めし、香港の攻略や南方作戦を有利にしたとして、阿南の慎重と放胆を両立させた作戦指導が評価されることとなった。阿南自身も、この作戦について「独断長沙進攻の非難あらんも、牽制価値大なりしに満足する」と日記に記すなど意義を強調している。阿南は部下ら若い将校との酒席に出ると、長沙作戦の経緯を語って聞かせ、第11軍の快進撃を引き合いに出して「いいか、ドンドン行け。ドンドン、ドンドン行け」と力強く語りかけたという。この「ドンドン」というのが阿南の口癖となった。
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