第11軍司令官とは? わかりやすく解説

第11軍司令官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 08:24 UTC 版)

阿南惟幾」の記事における「第11軍司令官」の解説

その後第2次近衛内閣第3次近衛内閣そして東條内閣続き東條内閣によって、日本太平洋戦争大東亜戦争)に突入した大本営支那派遣軍は、重慶政府大打撃与えて日中戦争解決目処をつけるため、中国軍が不陥と誇ってきた長沙への侵攻計画した。ところが、6月独ソ戦勃発による「関特演」への兵力転用や、日米交渉難航による南方作戦準備問題になるにつれ、大本営陸軍省では長沙進攻中止論が台頭していたが、阿南引き続き周到な作戦準備行った長沙には精強を誇る第9戦区軍司令部司令長官薛岳)があり、阿南はこの撃破目論見東部山系側面陣地撃破し長沙進攻しようと計画していたが、作戦認可した参謀本部中央突破作戦命じた第一次長沙作戦)。 第11軍歩兵45大隊大兵力で長沙目指し進軍したが、阿南懸念した通り東部山系側面陣地から戦力に勝る中国軍攻撃受けて苦戦強いられた。それでも第11軍多数中国軍部隊撃破しつつ長沙達した激戦のうえで長沙占領した第11軍であったが、阿南市街突入させる部隊最小限抑えて市街地の破壊食料物資略奪厳禁した。阿南略奪行為厳禁命じた意図支那派遣軍総司令官畑に「一般民家焼却すれば却って民心離反を招くから」と説明している。作戦目的中国軍打撃与えることであり、第11軍は主敵であった74軍を撃破54,000人の遺棄死体確認、4,200人の捕虜大量兵器弾薬獲得するといった大戦果を挙げた一方で長沙市街の軍事拠点は既に爆撃などで撃破されて戦略的価値低かったことから、作戦目的達したとして阿南長沙からの反転命じた。そのため、中国軍は「長沙未だに占領されず」と内外喧伝し、また第11軍長沙戦っているころに、中国軍主力15師団宜昌大攻勢をかけており、結局作戦目的であった中国軍弱体化達成することはできなかった。 第一次長沙作戦中国軍大打撃与えつつも作戦目的果たせなかった阿南機会うかがっていたが、太平洋戦争開戦した12月8日香港攻略作戦開始した華南第23軍背後衝くため中国軍第4軍・暫編第2軍)が、長沙付近から広東方面への南下開始したのを知って第11軍は、すぐさま中国軍南下牽制する作戦検討され木下勇参謀長から作戦説明受けた阿南軍司令官第二次長沙作戦即断し、第11軍独断作戦開始した第11軍の3個師団10万人は、退却開始した中国軍追って無人の野を進むが如く急速で進撃続けた阿南前回長沙放棄したことを悔やんでおり、今回長沙占領確保するつもりであった。しかし、中国軍撤退は「退却攻勢作戦で、長沙では30万人中国軍待ち構えていたが、それに対して第11軍急遽作戦開始で3個師団連携取れておらず、兵站も不十分であった先行する第3師団加藤大隊の加藤素一少佐偵察中に戦死し携行していた作戦計画命令書を中国軍奪取されて、第11軍弾薬が不十分であることが露見するといった不幸も重なって、罠に飛び込んだとなった第11軍ではあったが、それでも第6師団猛進して、長沙まで到達した。しかし前回とは打って変わり長沙堅牢に陣地化されており、第6師団突撃繰り返す容易に城壁外のトーチカ突破できず、また、第3師団長沙への攻撃開始したが、第6師団同様に城壁突破できず、逆に戦力が勝る長沙守備隊から数十回にも及ぶ逆襲受けて防衛戦強いられた。2個師団長沙攻略手間取っている間に、背後から中国軍30師団迫ってきて包囲されてしまった。残る第40師団長沙45手前優勢な中国軍包囲されており、第11軍苦境に立たされた。作戦開始以降強気な作戦指導行い泰然自若態度幕僚らを慰撫激励してきた阿南も、戦況激変したことで憂い濃くなり、強行突破による敵主力撃滅作戦方針転換して反転し敵の薄弱部を突破して撤退命じた。 3個師団は、圧倒的多数中国軍相手戦闘しながら撤退余儀なくされて多く損害被り、この作戦による日本軍の損害戦死1,591人、戦傷4,412人にも上ったが、各師団厳し戦況なかでも敢闘中国軍にも打撃与えて遺棄死体28,612人を確認し捕虜1,065人を得ている。中国側長沙会戦呼んだこの戦いは、日本軍対す連合国軍最初勝利として重慶政府大い喧伝したが、中国軍自身は、数倍の戦力揃えて周到に包囲作戦準備していたにも関わらず第11軍取り逃がしたことについて「すこぶる遺憾」と厳し評価をしている。さらに、香港日本軍占領しこの中国軍勝利戦略的に大きな意味は持たなかった。第11軍準備不足作戦開始し結果的に優勢な相手撃退された形となったことに、支那派遣軍総司令官畑は批判的であったが、重慶政府戦略的に政治的に長沙最重要視していることを再認識させられている。 第二次長沙作戦敗北は、阿南第109師団長時代山西軍や八路軍相手積極的な攻勢完勝した成功体験踏襲して招いたという指摘もあるが、圧倒的に戦力が勝る中国軍に対して味方劣勢承知で敢て中国軍主力12個軍を牽制して足止めし、香港攻略南方作戦有利にしたとして、阿南の慎重と放胆両立させた作戦指導評価されることとなった阿南自身も、この作戦について「独断長沙進攻非難あらんも、牽制価値大なりしに満足する」と日記に記すなど意義強調している。阿南部下ら若い将校との酒席に出ると、長沙作戦経緯語って聞かせ第11軍快進撃引き合い出して「いいか、ドンドン行けドンドンドンドン行け」と力強く語りかけたという。この「ドンドン」というのが阿南口癖となった

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