第11軍方面とは? わかりやすく解説

第11軍方面(武漢地区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 01:02 UTC 版)

冬季攻勢 (1939-1940年)」の記事における「第11軍方面(武漢地区)」の解説

第11軍は、支那派遣軍総司令部からの通報中国軍反攻企図知ったが、四月攻勢前例慣れて、「(敵の総反攻は)痴人迷夢過ぎず」と楽観視していた。12月12日中国軍第11軍の全正面一斉に来襲してきた。かつて無い大規模な攻勢で、1月20日ごろまで約40日間わたって執拗に行われた日本軍第一線部隊は、ほとんど小部隊ごとに中国軍重囲の中で孤立し物資欠乏大きな損害に耐えながら防戦した。第11軍直轄機動兵団持っていなかったので、わずかに集めうる兵力抽出して緊急方面急派させるとともに孤立した小部に対して航空部隊空中補給行った。 以下は、第11軍師団戦闘例。 第3師団来襲した中国軍23個師。師団12月14日信陽方面出撃して中国軍撃退、応山地守備隊来襲した10個師から陣地死守した。その後中国軍攻撃はやまず、師団1月5日からの反撃作戦掃蕩行った第13師団来襲した中国軍49個師。1、2小隊ごとに配置され警備隊はたちまち孤立して主力との連絡遮断された。悪戦苦闘続いた後、師団第11軍からの増援部隊出撃すると、中国軍12月22日夜に後退した1月入ってからも安陸京山方面中国軍出撃してきたので、師団3月上旬まで掃蕩作戦続行した第6師団来襲した中国軍16個師。7,8キロ間隔配置され警備陣地隙間から深く侵入して猛攻加えてきた。隣接の第40師団第11軍からの増援部隊出撃し、12月24日ごろまでに中国軍撃退した。しかし中国軍多く山地拠って退却せず、師団1月入ってからも掃蕩作戦実施した。 第40師団冬季攻勢先立って警備地域前面掃蕩をあらかじめ準備していた。そこへ中国軍の5個師が来襲したが、師団機先を制し東西から挟撃、第197司令部急襲するなど多く戦果収めた。また石本支隊歩兵5個大隊砲兵2個大隊)を第6師団配属させて掃蕩作戦行った中国軍士気旺盛で、戦法夜間攻撃用い隠密に接近して日本軍拠点包囲し手榴弾による近接戦闘築城利用をする等よく訓練されていた。また兵器弾薬も豊富で十分な補給能力があった。来襲した兵力合計71個師(約54万人この方面の約80%)にのぼった第11軍は守地を中国軍奪取されことなく守備全うしたが、死傷約8,000人の損害出した第11軍はこの戦いで中国軍戦力侮り難いものと考え一大進攻作戦によって中国軍戦力破砕しようと考えた宜昌作戦)。

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