第11軍方面(武漢地区)
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「冬季攻勢 (1939-1940年)」の記事における「第11軍方面(武漢地区)」の解説
第11軍は、支那派遣軍総司令部からの通報で中国軍の反攻の企図を知ったが、四月攻勢の前例に慣れて、「(敵の総反攻は)痴人の迷夢に過ぎず」と楽観視していた。12月12日、中国軍は第11軍の全正面に一斉に来襲してきた。かつて無い大規模な攻勢で、1月20日ごろまで約40日間にわたって執拗に行われた。日本軍の第一線部隊は、ほとんど小部隊ごとに中国軍の重囲の中で孤立し、物資の欠乏と大きな損害に耐えながら防戦した。第11軍は直轄の機動兵団を持っていなかったので、わずかに集めうる兵力を抽出して緊急方面に急派させるとともに、孤立した小部隊に対しては航空部隊で空中補給を行った。 以下は、第11軍各師団の戦闘例。 第3師団に来襲した中国軍は23個師。師団は12月14日信陽方面に出撃して中国軍を撃退、応山地区守備隊は来襲した10個師から陣地を死守した。その後も中国軍の攻撃はやまず、師団は1月5日からの反撃作戦で掃蕩を行った。 第13師団に来襲した中国軍は49個師。1、2小隊ごとに配置された警備隊はたちまち孤立して主力との連絡を遮断された。悪戦苦闘が続いた後、師団と第11軍からの増援部隊が出撃すると、中国軍は12月22日夜に後退した。1月に入ってからも安陸・京山方面で中国軍が出撃してきたので、師団は3月上旬まで掃蕩作戦を続行した。 第6師団に来襲した中国軍は16個師。7,8キロ間隔で配置された警備陣地の隙間から深く侵入して猛攻を加えてきた。隣接の第40師団と第11軍からの増援部隊で出撃し、12月24日ごろまでに中国軍を撃退した。しかし中国軍の多くは山地に拠って退却せず、師団は1月に入ってからも掃蕩作戦を実施した。 第40師団は冬季攻勢に先立って、警備地域前面の掃蕩をあらかじめ準備していた。そこへ中国軍の5個師が来襲したが、師団は機先を制して東西から挟撃、第197師司令部を急襲するなど多くの戦果を収めた。また石本支隊(歩兵5個大隊、砲兵2個大隊)を第6師団に配属させて掃蕩作戦を行った。 中国軍の士気は旺盛で、戦法は夜間攻撃を用い、隠密に接近して日本軍拠点を包囲し、手榴弾による近接戦闘、築城の利用をする等よく訓練されていた。また兵器・弾薬も豊富で十分な補給能力があった。来襲した兵力は合計約71個師(約54万人・この方面の約80%)にのぼった。第11軍は守地を中国軍に奪取されることなく守備を全うしたが、死傷約8,000人の損害を出した。第11軍はこの戦いで、中国軍の戦力を侮り難いものと考え、一大進攻作戦によって中国軍の戦力を破砕しようと考えた(宜昌作戦)。
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