第109師団長
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11月9日第109師団長に親補。この人事については、第109師団の前任の師団長山岡重厚予備中将が体調不良で交代を要することとなり、阿南は何人かの候補を挙げたが、いずれも板垣から承認されず、ついに阿南が自分で立候補すると、板垣は即承認したということで、思うようにならない阿南を煙たがり、参謀本部が阿南の更迭を板垣に要請し、板垣が応じた結果であった。板垣らの目的はあくまでも阿南の人事局長更迭であり、阿南はこれまでの人事局長と同様に、自らの“お手盛り人事”によって、精強の常設師団に転出することも可能であったが、常設師団の第5師団の師団長には後輩の今村均中将を推し、自分は特設師団の第109師団を選んだことになったので、いかにも阿南らしい人事と評判となった。 人事局を追われるかのような更迭劇であり、人事局員も板垣らに遠慮し、見送りは額田ただ1人という寂しい門出となったが、昭和天皇が、出征の門出として阿南を宮中に招き2人きりで陪食している。これは前例がなかったことで、昭和天皇が阿南を信頼していたという証拠であった。2人は女官が運んできた松花堂弁当を食べ、食事が終わった後も時間が許す限り話し込んだ。天皇と2人きりの陪食が周囲に知れれば反響が大きすぎるとして、この件は現侍従長の百武三郎大将ほか、ごく一部以外には内密にされた。阿南は感激して句を作り、この御恩に報いるため、天皇のためなら死んでも構わないと固く決意した。のちにこの時詠んだ句が阿南の辞世の句となった。 阿南は51歳にして初めて実戦の場に立つことになったが、今まで培ってきた知識による巧みな作戦指揮で、兵力が勝る山西軍や八路軍を相手に大戦果を挙げ続けた。1939年(昭和14年)3月に開始されたN号作戦では、30,000名の兵力を擁する山西軍と八路軍を撃破して、山西軍の重要拠点静落県城を攻略している。また4月に開始された3号第2期作戦でも山西軍主力に大打撃を与えている。 1939年(昭和14年)6月には、山西軍主力殲滅作戦を開始、わずか5個大隊の兵力で、山西軍4個師団を包囲してこれをほぼ殲滅してしまった。この時の殲滅戦は、兵力不足のなかで兵力が勝る敵軍を包囲殲滅した理想的な作戦例として、その後に参謀本部が作成し、教材として使用される殲滅戦例資料にも取り上げられた。その後も第109師団は順調に進撃し、阿南の大胆な作戦指揮によって要衝山西省路安城も攻略した。作戦中、阿南は激戦地では第一線に立って作戦を指揮し、第109師団は約10倍の203,000名の中国軍と交戦、うち18,400名を戦死させて、2,002名の捕虜を得たが、捕虜のなかには山西軍の師団長も含まれていた。一方で第109師団の戦死者は231名、戦傷者は537名であった。捕虜に対する処置は、阿南の「祖国のため互いに敵味方となって戦ったが。個人としては何の怨恨があるわけではない。今後十分な保護を与えるよう」という指示によって寛大に扱われて、食料、甘味品、タバコなど贈り、戦死した部下の慰霊祭を施行するときは、敵軍戦死者の供養塔も立てることも忘れなかったという。阿南の指揮官としての信条は「徳義ハ戦力ナリ」であり、捕虜の対応についてもその信条に基づくものであった。
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