小笠原兵団の編成と編制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
「硫黄島の戦い」の記事における「小笠原兵団の編成と編制」の解説
大本営は、アメリカ軍のパラオ諸島空襲など、パラオやマリアナの戦況が風雲急を告げるようになると、第31軍による小笠原諸島の作戦指導は困難になる可能性がたかく、小笠原にも作戦の権限を与えるために、マリアナへの戦力増強がひと段落した1944年5月22日をもって、他の在小笠原方面部隊と併せて第109師団を編成した(大陸命1014号)。隷下部隊としては、父島に配備されている父島要塞守備隊等、硫黄島に配備されている「伊支隊」等、母島の混成第1連隊を指揮下においた。そして第109師団の師団長には太平洋戦争緒戦の南方作戦・香港攻略戦で第23軍参謀長として従軍、攻略戦後は留守近衛第2師団長として内地に留まっていた栗林忠道陸軍中将が任命され就任した。栗林は5月27日に親補式に臨んだが、その席で東條英機陸軍大臣兼参謀総長から「帝国と陸軍は、この重要な島の防衛に関して、貴官に全面的な信頼をかけている」と声をかけている。 栗林は第109師団長として、小笠原諸島全体の最高司令官であり、司令部機能が充実している父島要塞で指揮を執るものと思われていたが、6月8日に日本本土から直路硫黄島に向かい、そのまま戦死するまで一度も硫黄島を出ることはなかった。栗林が硫黄島を司令部に選んだのは、大本営の分析通り、飛行場のある硫黄島にアメリカ軍が侵攻してくる可能性が高いという戦略的判断と、指揮官は常に戦場の焦点にあるべきという信念に基づくものであったとされている。 6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸してサイパンの戦いが始まったが、日本軍守備隊は水際撃滅に失敗、アメリカ軍が内陸に向けて進撃していた。マリアナでの決戦を策し、「あ号作戦」を発動させていた海軍は、アメリカ軍の空襲で壊滅していたマリアナの航空戦力に代えて、アメリカ軍機動部隊との決戦に向かう第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)を支援させるため、第27航空戦隊及び横須賀海軍航空隊の一部で「八幡空襲部隊」(指揮官:松永貞市中将)を編制し硫黄島に進出させることとした。「八幡空襲部隊」の戦力は約300機の予定であったが、硫黄島付近の天候不良で進出が遅れて、6月19日時点で進出できたのはわずか29機に過ぎなかった。その6月19日に日本第一機動艦隊とアメリカ第58任務部隊が激突しマリアナ沖海戦が始まったが、第一機動艦隊は空母3隻と艦載機の大半を失う惨敗を喫してマリアナ海域より退避し、「あ号作戦」は惨憺たる結果に終わった。 マリアナ沖海戦で連合艦隊が惨敗を喫すると、大本営はサイパン島の確保は困難という判断を下し、このままマリアナ諸島を失って小笠原諸島が最前線陣地となる危険性が高まった。そこで大本営は、6月26日に大本営直轄部隊たる小笠原兵団を編成し、第31軍の指揮下から外して、第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、その兵団長を栗林に兼任させて小笠原諸島の防衛を委ねることとした(大陸命1038号)。 さらに大本営は、サイパン島奪回作戦の逆上陸部隊として準備していた、歩兵第145連隊(連隊長・池田増雄大佐)、同じく九七式中戦車(新砲塔)と九五式軽戦車を主力とする戦車第26連隊(連隊長・西竹一中佐)を硫黄島に送り込むことを決めた。その他の有力部隊として、秘密兵器である四式二〇糎噴進砲・四式四〇糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊(中隊長・横山義雄陸軍大尉)、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、一式機動四十七粍砲(対戦車砲)を装備する各独立速射砲大隊も増派された。また、硫黄島の従来より硫黄島に配置されていた「伊支隊」等の各要塞歩兵隊の混成旅団への改編に着手し、7月までには混成第2旅団として編成し、旅団長には父島要塞の司令官であった大須賀が任じられた。同様に父島要塞の部隊も混成第1旅団に改編され旅団長は立花芳夫少将が任じられている。 「あ号作戦」には間に合わなかった「八幡空襲部隊」であったが、6月24日にようやく戦闘機59機、艦爆29機、陸攻21機の戦力を硫黄島に進出させた。しかし、同日早朝に機先を制して第58任務部隊第1群の空母「ホーネット」、「ヨークタウン」、「バターン」から発艦したアメリカ軍艦載機約70機が硫黄島を襲撃、「八幡空襲部隊」はエースパイロット坂井三郎も含めて全戦闘機を出撃させて迎撃したが24機が未帰還となったのに対して、アメリカ軍の損害は6機であった(日本側は41機の撃墜を報告)。さらに「八幡空襲部隊」はアメリカ軍艦隊に対して反撃を行ったが、艦爆7機と戦闘機10機が未帰還となって、たった1日で半分の戦力を失ってしまった。その後も「八幡空襲部隊」の硫黄島への進出は進み、アメリカ軍艦隊やサイパンの飛行場やアメリカ軍地上部隊に対する攻撃が続けられた。アメリカ軍はそれに対抗して硫黄島への再三にわたる空襲を行ってきたので、「八幡空襲部隊」は次第に戦力を失い、最後は7月4日に巡洋艦8隻と駆逐艦8隻による艦砲射撃によって作戦機を全機撃破されてしまった。このため、アメリカ軍侵攻前に硫黄島の航空戦力はほとんどなくなってしまった。 硫黄島には1940年時点で住民が1,051人居住していたが、否が応でも戦争に巻き込まれてしまい、全島192戸の住宅は3月16日までの空襲で120戸が焼失、6月末には20戸にまでなっていた。栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は7月12日まで数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した。
※この「小笠原兵団の編成と編制」の解説は、「硫黄島の戦い」の解説の一部です。
「小笠原兵団の編成と編制」を含む「硫黄島の戦い」の記事については、「硫黄島の戦い」の概要を参照ください。
- 小笠原兵団の編成と編制のページへのリンク