小笠原家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:24 UTC 版)
石川家改易後の慶長18年(1613年)11月、飯田藩より小笠原秀政が8万石で入った。秀政は古河3万石から関ヶ原後に2万石を加増されて飯田藩5万石に移封されており、今回はさらに3万石を加増されての久々の旧領復帰で一族家中は大いに喜びあったという。秀政は寺社政策、多くの領内法度を制定して年貢制度を整え、前の石川康長時代に人足役や職人役に苦しんで他村・他領に逃散した百姓を帰村させるために百姓還住策をとり、百姓が帰村した場合は自由に住居地を定めて諸役も免除するという寛大な政策を行なった。また地侍の力を弱めるため蔵入地(直轄地)を増やしたり、宿駅制度を整備して北国脇往還(善光寺道)の改修や整備を進めた。しかし秀政は元和元年(1615年)の大坂夏の陣で嫡男・小笠原忠脩とともに奮戦したものの戦死(忠脩は大坂の陣の間、松本城の守備を任されていたが、幕府に無断で出陣し父と合流した)。小笠原家の家督は秀政の次男・小笠原忠真が継いだ。忠真は大坂の陣における秀政・忠脩の軍功により2万石の加増を受け、10万石で播磨明石藩に移封された。この際に地元松本における小笠原家の家臣の多くが従って明石に赴いた。
※この「小笠原家の時代」の解説は、「松本藩」の解説の一部です。
「小笠原家の時代」を含む「松本藩」の記事については、「松本藩」の概要を参照ください。
小笠原家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 01:19 UTC 版)
武蔵国本庄より小笠原信之が1万石加増の2万石で入った。家康覇業の功臣で徳川四天王として知られる酒井忠次の三男であり、小笠原秀政の同族信嶺の養子である。信之は入部してから2年後の慶長19年(1614年)に45歳で死去し、嫡男政信が家督を相続した。元和5年(1619年)、下総関宿へ移封された。
※この「小笠原家の時代」の解説は、「古河藩」の解説の一部です。
「小笠原家の時代」を含む「古河藩」の記事については、「古河藩」の概要を参照ください。
- 小笠原家の時代のページへのリンク