宿駅制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 19:48 UTC 版)
東海道をはじめとする五街道のすべてには、適当な間隔に宿場を置いて、各宿場に人足と荷駄用の馬(伝馬)を一定数常備し、幕府公用の役人の荷物運搬にあたらせた。各宿場には、幕府から幕府公用のための人馬提供を命じられたが、その見返りとして宿場経営の権利が与えられ、一般客の宿泊や荷物逓送で生計を立てることが許された。各街道の交通量に従って宿場に常備する人馬の数が定められており、例えば東海道では一宿場につき人足100人と馬100疋、中山道では人足50人・馬50疋、甲州街道では人足25人・馬25疋というように異なった。これら人馬常備の負担は大きく、宿場関係者や沿道地元民を苦しめ、宿場の維持に苦労した。江戸時代後期の道中奉行である石川忠房は、文政5年(1822年)に地元民から再三嘆願されていた中山道・安中宿の人馬提供数の負担を半減させる宿駅制度の改革を行うなど、それまでの宿駅制度について改革を実行されたりもしたが、時代の推移とともに一般人の旅行者が増えるに従って、幕府御用の交通量も増えていったことから、これに対応する助郷制度が作られるなど沿線住民の負担は増える一方であった。結局、幕府御用の輸送を沿線住民がすべて負担するというこれら幕府の特権制度について、幕府が抜本的な改革を行うことがなかったため解消されることはなく、幕藩体制が消滅して明治時代に入るまでの間続いた。そのため、多大な負担が課せられた宿駅制度が幕府崩壊の一因でもあるともいわれている。
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