住民の疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 10:13 UTC 版)
戦況が日々悪化する中、牛島は妻女に「私だけがのうのうと教壇に立っていては相すまぬ。戦死覚悟で御奉公したい」ともらしていたが、1944年8月、第32軍司令官に親補され、沖縄に赴任することとなった。羽田空港から東京を出発する際には、すでに死を覚悟していたが、妻女に「きみがいるから、子供のことも家のことも心配ない、じゃあ行ってくる」とだけ言って飛行機に乗り込んでいる。 前任の渡辺正夫 中将がやや神経質な性格で、沖縄県民への講演会などで危機感を煽りすぎて、かえって恐怖心を起こさせたのに対し、第32軍航空担当参謀の神直道少佐によれば後任の牛島は、「常に悠々として迫らず、几帳面、面上微笑の絶えたことなし」といった風格を備えており、沖縄県民に安心感と軍に対する信頼感を大いに増大させている。 沖縄県民を島外に疎開させようという計画は渡辺が軍司令官の時から進められ、沖縄に兵士や軍需物資を輸送してきた軍用輸送船の帰路に、老人、学童、幼児、婦女子などを乗せて日本本土や台湾に疎開させようとしていたが、沖縄県民が続々と到着する増援を見て恐怖感が薄れたこともあり、軍や沖縄県の説得にも関わらず、なかなか疎開が進まなかった。そのため、住民疎開を主導していた荒井退造・沖縄県警察部長が第32軍に「軍隊が戦いに勝つ勝つと宣伝するので、住民が動かないので困る。なにとぞ駐屯の将兵は、景気のいい言葉を慎み、疎開に協力してもらいたい」と陳情している。その後、軍と沖縄県の尽力もあって、牛島が着任した8月には一旦疎開は軌道に乗ったかに見えたが、8月22日に疎開学童を乗せた「対馬丸」が撃沈され、学童多数を含む約1,400名が海没した。牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという。それでも、連合軍上陸直前の1945年3月までに、沖縄本島より延べ187隻で約80,000名、八重山列島より約30,000名の住民を疎開させている。特に大東諸島は殆ど全島民を疎開させている。 12月になって軍中央より『皇土警備要領』が示達された。これは台湾と南西諸島を最前線と位置付けて、戦地となる地域の住民を戦力化し、食糧を1年間分確保の上で、戦力化できない老若婦女子をあらかじめ退避させるというものであったが、第32軍の高級参謀八原博通大佐はより具体化した「南西諸島警備要領」を作成し、牛島はこれを裁可した。 およそ戦闘能力、もしくは作業力のある者はあげて戦闘準備及び戦闘に参加する。 60歳以上の老人、国民学校以下の児童、ならびにこれを世話するに必要な女子は、昭和20年3月までに、戦闘の予期せざる島の北半部に疎開させる。 各部隊は所属自動車、その他の車輌、並びに所属舟艇を以て極力右疎開を援助する。 爾余の住民中、直接戦闘に参加せざる者は、依然戦闘準備作業、農耕その他生業に従事し、戦闘開始直前急速に島の北半部に疎開させる。 県知事は島の北半部に、疎開民のための食糧や居住施設を準備する。 八原はこの要領を作成するにあたって「サイパンの二の舞は厳に慎むべき、アメリカは文明国でよもや非戦闘民を虐殺することはないはず。主戦場となる島の南部に非戦闘民をとどめておけば、剣電弾雨のなかを彷徨する惨状になる」と牛島に進言したが、牛島も『一億総玉砕』が呼号されている時勢であったのにも関わらず、八原の意見に大いに賛同している。しかし、この結果、17歳~45歳までの青壮男子が根こそぎ防衛召集され戦力化されるとともに、およそ戦闘能力、もしくは作業力のある者として中学生や沖縄師範学校の生徒、高等女学校生徒らも通信兵や看護婦として軍に徴集されたが、これが後の『鉄血勤皇隊』や『ひめゆり学徒隊』の悲劇を生むことになってしまった。 第32軍参謀長の長勇少将は1945年1月31日に着任した島田叡新沖縄県知事に、「南西諸島警備要領」に沿って、半年分の沖縄県民の食糧を確保するよう指示した。着任早々にも関わらず島田は非常な熱意で食糧確保に奔走し、2月には危険を冒して台湾に飛んで、台湾米を10万袋確保することに成功した。しかし、その後台湾と沖縄間の海上輸送がアメリカ軍潜水艦により断絶し、せっかく確保した台湾米も一部しか沖縄に届かなかった。 食糧の備蓄も少なく、また「やんばる」と呼ばれるマラリア発症地の沖縄北部山岳地帯にすすんで避難しようという住民は少なく、沖縄県の必死の呼びかけや、軍用車両を提供するなどの軍の努力にも関わらず、疎開は遅々として進まなかった。沖縄県は家畜の餌として豊富にあった甘藷を人用の食糧として転用するなどの策を講じ、戦闘開始前までに85,000名を沖縄北部に疎開させたが、これは予定の1/3に過ぎなかった。 老若婦女子以外の県民は、陣地構築などの軍の作業に従事したが、牛島自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島は暇があるたびに作業現場を視察し、中学生や住民にまじって壕掘りの手伝いをした。県民の献身に感動した牛島は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示している。
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