住民は理論に信頼せず
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 16:38 UTC 版)
「桜島の大正大噴火」の記事における「住民は理論に信頼せず」の解説
前兆現象の節で述べたように大正大噴火には有感地震の多発に代表される前兆現象が確認されており、早い例では1月10日に桜島島外への避難を開始した住民がいた。11日になると有感地震が頻繁に発生するようになり、桜島での崩落や白煙が上がる現象が確認された。島民たちは噴火を恐れて大挙して離島し始めた。また安永噴火の言い伝えも住民たちの避難行動のきっかけとなった。更には噴火当日の12日朝には桜島島内で異常な湧水が起き、危険が差し迫ったことを察した島民たちの避難行動に結びついた。 噴火前に起きた住民たちの避難行動の結果、大正大噴火は大規模なプリニー式噴火であった割には死者が少なかった。当時の桜島の住民の多く半農半漁の生活を営んでおり、自家用の舟を所有している家庭が多かったことが島外避難にとって幸いした。しかし前兆現象を捉えて避難しようとした桜島島民の足を引っ張る形となったのが鹿児島測候所の対応であった。 鹿児島測候所では地震が頻発するようになると地震観測と解析に忙殺された。しかし当時、鹿児島気象台に配備されていた地震計は旧式のミルン式地震計で、地震、火山活動の観測体制強化のために新式の大森式地震計の設置を要望している最中であった。測候所にある1台の旧式地震計では震源地の特定もままならなかった。そこで各地の警察署を通じて地震の揺れ方の報告を求め、震源の推定を行おうとしたもののすぐの回答はなかった。やがて測候所にはマスコミや県などからの頻繁に発生する地震についての問い合わせが殺到するようになった。 頻繁な地震に脅かされた東桜島村は1月11日に測候所に問い合わせの電話を架けており、測候所側は桜島に危険が無い旨の回答を行っている。噴火当日の12日午前7時、8時前の段階での問い合わせでも、測候所の回答は桜島に噴火の恐れはないというものであった。村民の多くが避難行動に移る中、測候所を信じて避難を行わなかった人たちもいた。中でも島内では知識人とされていた人たちの多くが避難をしなかった。測候所の危険が無いとの回答を信じた村長ら村の幹部は、避難する村民たちを引き留めようともした。 11日の深夜になって、警察側から測候所に鹿児島県内での地震の揺れについての情報がもたらされ、ようやく一連の地震が桜島火山の火山性地震である可能性が高いことを把握する。地震計のデータからも12日未明の段階で火山性地震であることに確証を持つに至ったが、噴火の恐れがあると断言する決断を下せなかった。測候所が噴火の恐れがあると方針変換したのは1月12日午前8時頃、桜島に白煙が上るのを観測した後であった。 測候所側は早速鹿児島警察署に噴火の恐れがあることを通告した。警察署にはほぼ同時に西桜島村の駐在所巡査から緊急救援依頼の連絡が入った。鹿児島県警察部は至急、桜島に救援船を差し向けた。噴火開始後、警察は桜島周辺に停泊していた船や付近を航行中の船舶に対して島民救助にあたるよう指示した。救援活動には県警の他、大日本帝国陸軍の運送船、錦江湾沿岸の漁民らが協力した。翌13日には大日本帝国海軍が佐世保鎮守府から派遣した巡洋艦利根を旗艦とする救護隊が到着し救助活動に従事した。一方東桜島村側では午前8時過ぎ、測候所との連絡が取れない状態ではあったが、村長は事態の深刻さから全村民避難を決断する。 西桜島村は11日には多くの住民が避難していたことに加えて、風上で火山灰や軽石の降下が少なかったことが幸いして、救援船によってほとんどの村民が救助され、犠牲者は1名であった。一方午前8時過ぎに全村民避難を決定した東桜島村では、残留していた村民の避難時には火山灰や軽石の直撃を受けることになった。東桜島村の村長、収入役、2名の書記は進退窮まり、1月の鹿児島湾に飛び込んた。村長と書記のうち1名は救助されたものの、収入役と書記1名は亡くなった。その他にも測候所の噴火は起きないとの回答を信じ、避難が遅れた人たちの中から海に飛び込むなどして犠牲者が出た。結局東桜島村では死者行方不明者25名を出した。 噴火後、東桜島村では噴火時の川上村長が亡くなり、野添村長が就任した。亡くなった川上村長は、桜島に異変があった時には測候所の言を信じることなく自分たちの判断で避難すべきと記した噴火記念碑を建立することを念願していた。野添新村長は噴火時は東桜島村の書記を務めており、測候所を信じて噴火直前まで避難を行わず、噴火後海に飛び込み救助されていた。野添は川上前村長の遺志を引き継ぎ、1923年に村会に記念碑建立を提案する。村会も「桜島に異常があった時には測候所を信じず急ぎ避難せよ」との内容の文言を盛り込むことを条件に、全会一致で記念碑建立に賛成し、野添村長に一任することになった。 結局、碑文は測候所を名指しで批判する文言ではなく、「理論ニ信頼セズ」という表現に落ち着いた。これは碑文起草者が測候所の体面を考慮して名指しの批判を盛り込むことを避けたためであり、野添村長は不満を持ちながらもその判断を受け入れた。 大正三年一月十二日 櫻島ノ爆發ハ安永八年以来ノ大惨禍ニシテ 全島猛火ニ包マレ火石落下シ 降灰天地ヲ覆ヒ光景惨憺ヲ極メテ 八部落ヲ全滅セシメ百四十人ノ死傷者ヲ出セリ 其爆發数日前ヨリ 地震頻發シ岳上ハ多少崩壊ヲ認メラレ 海岸ニハ熱湯湧沸シ舊火口ヨリハ白煙ヲ揚ル等 刻刻容易ナラザル現象ナリシヲ以テ 村長ハ數回測候所ニ判定ヲ求メシモ 櫻島ハ噴火ナシト答フ 故ニ村長ハ殘留ノ住民ニ 狼狽シテ避難スルニ及バズト諭達セシガ 間モナク大爆發シテ 測候所ヲ信頼セシ知識階級ノ人 却テ災禍二罹リ 村長一行ハ難ヲ避クル土地ナク 各々身ヲ以テ海ニ投ジ漂流中 山下収入役 大山書記ノ如キハ終ニ悲惨ナル殉職ノ最期ヲ遂グルニ至レリ 本島ノ爆發ハ古来歴史ニ照ラシ 後日復亦免レザルハ必然ノコトナルベシ 住民ハ理論ニ信頼セズ 異變ヲ認知スル時ハ 未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ 平素勤倹産ヲ治メ 何時變災ニ値モ路途ニ迷ハザル覺悟ナカルベカラズ 茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス 大正十三年二月 東櫻島村 この科学的知見を信じるなと訴える「桜島爆発記念碑」は、鹿児島市東桜島町湯之の東桜島小学校校庭に現存している。
※この「住民は理論に信頼せず」の解説は、「桜島の大正大噴火」の解説の一部です。
「住民は理論に信頼せず」を含む「桜島の大正大噴火」の記事については、「桜島の大正大噴火」の概要を参照ください。
- 住民は理論に信頼せずのページへのリンク