住民の様子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 09:14 UTC 版)
視点を変えて、演習地となった地域に住む住民はこの大演習をどのように捉え、また生活にどのような影響があったかを、「金城新報」の記事から紹介する。 半田通信 今回の海陸大演習に付ては同港は恰も戦場の真中なれば人民はいづれも一ト儲けと大喜びの様子にて夫々準備中(3月8日) 誰もが一儲けと喜んでいた訳ではないだろうが、半田は商業の町であり、大演習で町の知名度が上がるだけでも宣伝効果があると喜ぶ人が多かったのは事実であろう。多数の見学者が来れば飲食物や土産物の売り上げが伸びるだろうと皮算用をした人もいたに違いない、何時の世でも商魂逞しい人はいるものである。 半田行在所の門今回行在所と定められたる半田小栗富次郎氏邸の門は低きに過ぐるが故に之を取払ひ更に大なる門を建築中なりといふ(3月20日) 内外貴顕の宿舎を割り当てられた家は、半田町でも富裕な家ばかりであった。末代までの名誉とばかり、家の造作や調度品の整備にそれなりの出費をしたであろうが、それを負担に感じる人はいなかったであろう。なお小栗富次郎邸に置かれた半田大本営へ入御される時、明治天皇は愛馬金華山に乗ったまま門をくぐったと伝わっている。 告示第四十二号 今般陸海軍聯合の大演習施行に付軍隊の運動上自然耕作物其他の物件に損害を與へたるときは被害土地の反別物件種類の調査を要せす不取敢損害を受けたる事の要旨を其地演習終結の翌々日まてに郡役所又は市役所へ申告すへし右期日内申告したるものに限り検査に及ふへき筈其筋より通牒ありたり 明治廿三年三月十九日 愛知縣知事 白根專一(3月21日) 演習地となった土地が演習のため、人馬に踏み荒らされれ損害を被った時には損害賠償のための調査をするので、演習後申告せよとの告示である。だが「半田市誌」によれば、地目により差があるものの、平均すると賠償額は見積の22%程度であったとされている。大演習で一儲けと喜んだ人もいたが、農地を踏み荒らされ、その損害も十分受けられず迷惑を被った人も多数いたのである。しかし、地域によっては全く損害の申告をしないところもあったようで、当事者たちに損害を迷惑と感じた人もいれば、この程度の損害は国民として受忍するのが当然であると考えた人もいたということである。 演習地人民の諸心得 演習地に於ける拝観人民の心得及び軍隊宿舎なる戸主の心得は左の如し 軍隊宿舎となる戸主の心得 ― 軍隊には軍紀あり風紀あり 風紀を摘説せんに取締りと云ふ意味に近し 軍隊の宿舎には此の風紀尤も厳粛なるものなれば宿舎の戸主も亦厳重に守らざる可からず 而して宿泊の軍人を丁寧に待遇するは一般国民の義務なれば専ら之を注意すべし(以下略)(3月25日) 心得には、銃架や背嚢(リュックサック)掛けを準備するのが望ましいとか、食事は消化のよいものをというように事細かく書かれている。宿舎に割り当てられた場合には対価(賄付の場合一人当たり15銭、自炊の場合一人当たり3銭)が支払われたが、決して高い額ではない。軍隊の宿舎に割り当てられたことで、それを国民の義務を果たす絶好の機会と受け止めたのか、その反対に余計な負担と感じたのかは新聞の記事からだけでは分からない。だが、この大演習では演習参加部隊が駐屯地から演習地へ移動の途次、あるいは演習終了後の帰路で民家へ宿泊した例は数多くある。 半田の道路改修 半田停車場より同市中へ達する道路は屈曲して頗る不便なるより今回の御臨幸を機として新道を開くことに決し巾三間にして停車場より一直線に本町へ通ずるやう田地又は家屋を毀ちて一昨日より着手し人夫数百人にて昼夜の別なく取急ぎ居るよしなるが三十日前には出来の見込なりといふ(3月26日) 大演習があったから、道路改修がなされ、周辺住民の生活の便が向上したことは事実であろう、しかし、その経費は地元負担であるから、大演習があったから道路が良くなったと単純に喜んでもいられないであろう。もっとも、大演習がなければ道路が改修されることもなく、住民は不便を忍んでいたであろうから、大演習は社会インフラの整備の促進という効果もあったと言えるであろう。 記事の最後に、当地であった泣くにも泣けない、当事者にとっては一瞬にして全身の力が抜けるような「事件」があったことを紹介する。 御休憩所の準備 亀崎町御休憩所伊藤孫左衛門氏は門前より書院迄新規に御影石を以て敷詰め巾四尺餘延長凡廿間餘誠に書院を始め各室とも絨毯を敷き内外の準備畧落成し門内には練業會員各自の銘酒數十樽を飾り付る計畫なりと (3月28日) 亀崎に於ける模様 縣下亀崎港は陛下の御小休みあらせらるる筈にて御休憩所たる伊藤孫左衛門氏は實に千載の一隅なのと歓喜の餘り種々の御待受けの準備をなし居り由の所此程全く其事を了したりと報知(3月29日) 亀崎人民の失望 一昨三十一日は知多郡亀崎へ 御臨幸遊はさるるやの御都合の御事に承るものから同港にては夫々奉迎の準備をなし今や遅しと待受け奉りしに同日午前十一時に至り其筋よりの御達しに今度は御都合ありて御臨幸遊ばされぬとの御事に何れも深く失望の色に見へたりとぞ(4月2日) 3月中旬に宮内省から侍従と侍従武官、地元からは愛知県知事と知多郡長が下検分に訪れ、御休憩所に決定したという。また3月25日には有栖川宮が現地を訪れ、高根山の検分をしているから、伊藤孫左衛門らが当然御臨幸があるものと信じていても不思議はない。しかし何の手違いか、新聞記事に書かれたような結果になったのである。このような手違いや行き違いは各地であったのではないかと推測する。
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