律令における出挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:31 UTC 版)
8世紀に施行された律令に初めて「出挙」の語が現れた(養老律令雑令)。従前から日本でも利子付き貸借の慣行が存在していたと考えられているが、律令上に出挙が明確に規定されることによって、利子付き貸借が国家により制度化されたのだと解釈されている。(出挙の制度化には、唐の影響を指摘する意見もある)。 出挙は元々、農業生産の推進・奨励、すなわち勧農の一つとして位置づけられていた。律令制においては、公的な出挙(公出挙:くすいこ)・私的な出挙(私出挙:しすいこ)に区分され、また、財物を出挙した場合と稲粟を出挙した場合で取扱いが異なっていた。具体的な内容は次のとおりである。 律令では、まず出挙が私的・自由な契約関係に依るべきであり、官庁の管理を受けないことを共通原則としていた。 財物の場合、60日ごとに8分の1ずつ利子を取ることとされ(年利約75%)、480日を経過しても元本以上の利子を取ることは認められなかった。さらに、利子の複利計算も禁じられていた。債務者が逃げたときは、保証人が弁済することも定められていた。 稲粟の場合、1年を満期として、私出挙であれば年利100%まで、公出挙であれば年利50%まで利子を取ることが認められており、財物と同様、複利計算は禁じられていた。 財物も稲粟も、非常に高い利子率が設定されているのが特徴的である。稲粟であれば、播種量に対する収穫量の割合が非常に高いため、利子率が著しく高くなるのは合理的だと言える。しかし、財物についても利子率がかなりの高水準であり、その理由について見解が分かれている。 都市部(平城京や平安京)では、財物の出挙が盛んに行われていたようで、平安時代初期に書かれた日本霊異記に、出挙によって金銭亡者となったり返済に苦悩したりする都市住民の様子がまざまざと描かれている。また、正倉院文書の中に出挙の貸借証文が多数のこされており、奈良時代当時の財物出挙の貴重な史料となっている。
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