律之助像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 08:24 UTC 版)
麓から太平山神社へ至る長い石段(あじさい坂)の途中に律之助の石像(胸像)がある。この石像は1951年(昭和26年)に律之助と縁のある農業団体やビール会社(日本麦酒、朝日麦酒、麒麟麦酒)、ビール酒造組合、ビール麦栽培団体(下都賀郡麦酒麦耕作組合連合会、各町村麦酒麦耕作組合)が立てたものであり、故郷の水代を見つめる向きに立っている。像の制作者は水代村の布施木石材店である。除幕式には、律之助の長男が水代村長として出席し、栃木県知事・小平重吉やビール会社代表らも参加した。 初代の像は律之助が亡くなってちょうど3年となる1935年(昭和10年)12月15日に太平山の六角堂前で除幕された、栃木市出身の彫刻家・鈴木賢二の手掛けた銅像(全身像)であった。鈴木はプロレタリア運動家としての側面があり、地主の律之助とは対照的であるが、田村家と鈴木家は親しく交流していた。農会(栃木県農会、各郡市農会)やビール麦栽培団体(下都賀郡下の各市町村ビール麦耕作組合)、栃南畜産購買販売利用組合らが発起人となって設置したが、第二次世界大戦中に金属類回収令で供出され、台座だけが残った。田村家には、この律之助像のミニチュア版と思われる鈴木の制作した像が残っている。後述の田村律之助顕彰会では、初代の像の再建構想を持っている。
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