住民の撤退とは? わかりやすく解説

住民の撤退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:12 UTC 版)

大和 (中川町)」の記事における「住民の撤退」の解説

先述のように多く入植があった大和であるが、中心市街地から36km、最寄り市街地佐久からも32kmも離れ村内多くと同様電化されていないことはもちろん「まだ汽車見たとがないという子供が多い」、というほどの交通不便かつ条件不利地であり、住民の生活決して楽ではなく後年撤退する住民現れた。最終的に1962年昭和37年時点15戸ほどにまで戸数減少しており、ハッカ栽培などを生業としていた。 大和地区最大転機は翌1962年昭和37年7月8月にかけての台風9号10号による水害である。この水害全村的な被害であったが、大和地区においては農作物被害もとより村道多く地すべりなどで崩落し交通不能となり、多く村費が必要と判断された。 これを受けて中川村では住民十分な話し合いの上で、道の「災害激甚農家移転対策実施要領に基づき1591全員大和放棄することとなった。道では最大25万円では30万円移転費支給することとなった。 翌1963年昭和38年3月7日幸小学校にて解散式・卒業式廃校が行われ、住民は春の堅雪使って集落から撤退した。なお書類上の幸小学校廃校同年3月31日である。 この廃校に際して2人児童生徒PTA会長次のように心境語っている。 ぼくはきょうわ(引用注中川町共和)の学校いきます中略)こんどはランプではありません。デンキがあるのでよるもたくさんべんきょうをしようと思っています(下略)。 — おいかわまさふみ(小2)、『中川町史』 (1975, p. 563) (前略)とにかく共和まで12粁、佐久の駅まで32粁もあり、冬の最中ほんとうに困りました先生達会議があると3日がかりという大変さでした。 — 佐藤嘉幸(中1)、『中川町史』 (1975, p. 563) 移転廃校ということは大変悲しいことですが、子供たちの幸福のためにはかえってよかったではないか思います下略)。 — 鎌塚 亮(PTA会長)、『中川町史』 (1975, p. 564)

※この「住民の撤退」の解説は、「大和 (中川町)」の解説の一部です。
「住民の撤退」を含む「大和 (中川町)」の記事については、「大和 (中川町)」の概要を参照ください。

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