住民の反発と中電の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:32 UTC 版)
1976年(昭和51年)に塩郷ダムより暫定的な放流が実施されてはいたが、結局これ以降も無水区間の解消には至らず、当時計画中であった長島ダムの事業進捗にも影響を及ぼした。長島ダムは多目的ダムであり、河川維持放流を行うことは目的の一つであるため本来は河川環境の改善にプラスに働くのであるが、ダムに対する不信を募らせていた地元住民は長島ダムにも反対の姿勢を見せた。そして頑なに水利権返還を拒否する電力会社に対する不満が次第に表面化していった。 そして塩郷ダムの次回水利権更新である1986年(昭和61年)が近づくに連れ、住民の「水返せ運動」は次第に熱を帯びていく。本川根町・中川根町・川根町の3町(当時)で作る川根地域振興協議会は静岡県に対し「大井川流域保全に関する陳情書」を提出し、水利権更新時の大井川無水区間解消を強く要望した。3町の住民は水利権返還を拒絶する中部電力に対して圧力を掛けるため1987年(昭和62年)1月に「大井川環境改善決起大会」を開催、800名の住民が参加し悲願達成を誓った。さらに3月には350人の住民が水の全く無い塩郷ダム直下流に集結し、「水」の人文字を作って中部電力に対し強硬な意思表示を行った。 当時の静岡県知事・斉藤滋与史はこうした住民の直接行動を受け中部電力に水利権の一部返還を迫った。中部電力も住民との対立は企業イメージへの深刻な打撃を与えることを危惧し、4月に塩郷ダムより毎秒3トン、大井川ダムより毎秒1トン、寸又川のダム群より毎秒0.6 - 0.7トンの河川維持放流を行うことを表明、大井川に25年ぶりの流水が復活した。だが住民の納得する流水回復ではなく、12月には協議会が再度要望書を知事に提出、「毎秒5トン・更新期間10年に短縮」という要求を行い1989年(平成元年)2月には大井川河川敷で1,000人が集まり決起大会を開催した。これを見た中部電力は遂に住民の要求に従うことになり、建設省との水利権更新において「通年放流量毎秒3トン、農繁期放流量毎秒5トン」の水利権返還を表明した。ただし水利権更新については30年更新で建設省に申請することとなり、静岡県もこれに同意した。 こうして塩郷ダムより毎秒5トンの水が放流されるようになり、完全に水が無かった大井川は遂に流水が復活した。斎藤知事はこの心境を「桜花 五トンの流れ 照り映えて 大いなる川 よみがえりたり」の短歌に認めた。この句は後に石碑となり、現在は塩郷ダム直下流の大井川親水公園内に建立されている。塩郷ダムの問題は解決したが、未だ最上流部の田代ダムの水利権返還は東京電力の拒否にあい解決されていなかった。
※この「住民の反発と中電の対応」の解説は、「大井川」の解説の一部です。
「住民の反発と中電の対応」を含む「大井川」の記事については、「大井川」の概要を参照ください。
- 住民の反発と中電の対応のページへのリンク