住民の復興計画反対運動
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火災当日、鎮火まもない1962年9月26日午後3時頃に九州電力五島営業所で災害対策連絡協議会が開催され、長崎県知事、福江市長、福江市議会員、福江商工会幹部などが集まり復興計画について協議した。 今回のような大災害に関しては特に事業計画確定を急ぐ必要性から、具体的な土地区画整理事業の設計については長崎県が中心となって取り組んだ。 また、計画概要として 整理用地範囲 街路計画 区画整理 の3点を盛り込み、特に2.の街路計画に関しては防災機能と将来的な交通量、美観維持を主目的にメイン街路8本、延長14.5キロメートル、そして福江市では前例のない歩車分離の16メートル道路を盛り込んだ。 1962年(昭和37年)11月9日より福江市役所および五島支庁にて供されたこの復興計画案は、被災者のうち特に商店街住民の大反発を招いた。その後幾度も住民協議を重ねたが、遂には住民側が「福江市区画整理対策委員会」を立ち上げ反対運動が本格化した。反対運動の矛先は当時の福江市長に向かい毎日の罵倒に晒され、市長に警察署員の護衛がつくこともあった。長崎県知事にも数百もの反対意見を表する電報が届いていた。 しかし、この反対運動は福江市側が粘り強く各町内会別の住民説明会を進めるうちに市民側から新たに「区画整理促進委員会」が設立されるなど区画整理賛成派が増加する契機ともなり、また住民側の反対を推して進められた区画整理事業の強行は工事が進むにつれ反対運動の威勢が衰え、最終的には大火から4年後となる1966年(昭和41年)夏に福江大火復興事業は完了した。
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