住民の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 06:13 UTC 版)
1408年末、ヴィータウタスが東方遠征を終えた時、騎士団とリトアニアの対立が火を噴いた。この年の後半には、ヴィータウタスはナヴァフルダクでヨガイラと会見し、ジェマイティヤ人を援助してドイツ騎士団を刺激し、ポーランドに対し宣戦布告させるという算段で合意した。ポーランド王国もドブジン地方をめぐるドイツ騎士団との対立があり、またポーランド・リトアニア合同を維持するためにも騎士団のリトアニアに対する影響力を一掃したかった。この年に飢饉にみまわれたジェマイティヤ人は1409年5月26日に再蜂起し、クリストメーメル、フリーデブルク、ドベジンブルクを焼くことに成功した。ドイツ騎士団の城塞で攻撃を耐えたのはメーメルだけだった。ヴィータウタスは裏ではこの反乱を支援しつつ、公式にはラチョンシュの和約を遵守しているよう装っていた。ヨガイラが飢饉に苦しんでいるジェマイティヤ人を救うためにトルンから派遣した穀物船20隻が騎士団に鹵獲されたのち、ヴィータウタスは公然と騎士団との戦端を開いた。これはネムナス・デルタにおける貿易をめぐる事件として重要である。ヴィータウタスは、ルンバウダス・ヴァリマンタイティス、ガルミナス、ゲタウタス、クラウシガイラ、ヴァシブタスといった自身の部下を反乱軍に送り込み指揮させた。反乱軍はジェマイティヤ全域を覆い、ドイツ騎士団はプロイセンへの撤退を強いられた。シュヴィトリガイラはもう一度ヴィータウタス政権転覆と大公位獲得を試みて騎士団と同盟したが失敗し、投獄された。
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