ムスリム懐柔とレコンキスタ推進
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「フェルナンド3世 (カスティーリャ王)」の記事における「ムスリム懐柔とレコンキスタ推進」の解説
この頃になると北アフリカのムワッヒド朝を始めとする、イベリア半島南部アンダルスのイスラム教勢力(ムスリム)は衰退の一途をたどっていた。ムワッヒド朝カリフ・ユースフ2世が子の無いまま1224年に亡くなり、後継者争いで内乱が勃発し分裂・弱体化していたからであり、ムワッヒド朝はモロッコのマリーン朝やチュニジアのハフス朝との抗争に忙殺、アンダルスへ出兵する余裕が無かった。イベリア半島でも分裂が起こり、ハエンでイブン・アフマル(後のナスル朝グラナダ王ムハンマド1世)が、バレンシアでザイヤーン・イブン・マルダニーシュ(英語版)が、ムルシアでイブン・フードら小君主(タイファ)たちが台頭、複数のカリフ候補者(マラケシュでアブドゥル・ワーヒド1世、セビリアでアブドゥッラー・アーディル、コルドバとバエサでアブー・ムハンマド・アル・バイヤーシー(スペイン語版)がカリフを要求)も乱立して互いに相争う始末であった。 そこでフェルナンド3世は、ムスリムの分裂に付け込んでレコンキスタを推進することにした。レオン王位継承前の1224年6月、カスティーリャの宮廷で母と諸侯にムワッヒド朝攻撃を宣言、9月末にケサダ(英語版)を攻略した。それから調略と武力を巧みに使い分け、アーディルとバイヤーシーの争いに付け込み、同年にバイヤーシーと兄弟のバレンシア総督アブー・ザイド(英語版)を臣従させ、親アーディル派の地方を攻撃した。バイヤーシーとの協力を取り付けると翌1225年にハエンを攻撃、ハエンは落とせなかったがプリエゴ(英語版)などを陥落させ、身代金を支払った住民以外を虐殺する手段でグラナダなど他のアンダルスの住民を恐れさせた。 この遠征ではバイヤーシーから協力の見返りとしてマルトス・アンドゥハルなどいくつかの都市を受け取っただけでなく、元カスティーリャの貴族だったアルバロ・ペレス・デ・カストロ(英語版)も帰順するという成果があった。アルバロは父のペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ(英語版)共々ムワッヒド朝に仕えていたが、フェルナンド3世はアルバロの帰順を受け入れ一旦トレドへ戻った。その間留守を任されたアルバロがカラトラバ騎士団長ゴンサーロ・イアーニェス・デ・ノボーアやバイヤーシーの軍と共にグアダルキビール川を下って進軍、ムワッヒド軍を破ったおかげで再度アンダルスに進軍した時、バイヤーシーからバエサなどを受け取り着実にレコンキスタは進展した。翌1226年にバイヤーシーはコルドバ住民の反乱で殺されたが、残されたアルバロ・ゴンサーロらはグアダルキビール川流域攻撃を続け、ムワッヒド軍と休戦を取り付け、引き続き各都市攻略に邁進していった。 1230年、ハエン包囲中に父の訃報を知ると、包囲を切り上げレオンへ向かい、レオン王を兼任したが王位の実効支配は2年かかった。この間フェルナンド3世が不在のアンダルス征服はトレド大司教ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダや弟のモリナ公アルフォンソとアルバロに委ねられ、ロドリゴはムスリム勢力に奪われたケサダを1231年に奪還、モリナ公とアルバロはヘレス・デ・ラ・フロンテーラに進軍してイブン・フードの軍に勝利した。勢いに乗ったキリスト教勢力は1233年から1235年にかけてイベリア半島南西部を征服、ゴンサーロ率いるカラトラバ騎士団とサンティアゴ騎士団がトルヒーリョ、メデリン(英語版)、マガセーラ(英語版)など西部都市を攻略した。ポルトガルもレコンキスタに取り組み1250年までに完了させたが、ポルトガルとカスティーリャは征服後の領土に関する分割条約を結んでいなかったため、国境紛争が起こった。この問題が解決するのは交渉で国境が確定した1267年までかかった。
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