ムスリム諸侯の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 05:01 UTC 版)
エセンの死後、オイラト帝国は瓦解しモンゴリアは混乱状態に陥ったが、やがてハラチン部のボライ太師やオンリュート部のモーリハイ王といった人物が一時的に有力となった。しかしこれらの有力者が権力闘争で殺された頃、コムル近辺に居住していたベグ・アルスランがメクリン部を率いて南モンゴルに進出し、モンゴリア最大の勢力となった。ベグ・アルスランはオルドス地方の有力者オロチュを打倒して旧ボライ配下の勢力も吸収し、この頃ハラチン部・アスト部を含む「大ヨンシエブ」が形成されたと見られる。ベグ・アルスランはマンドゥールン・ハーンを擁立することでモンゴリアの実権を握っていたが、やがてマンドゥールン・ハーンと対立してこれを廃そうとしたため、モンゴルジン=トゥメト部のトゥルゲンと組んだ「族弟」のイスマイルによって殺された。 イスマイルはかつてマンドゥールン・ハーンの治世にボルフ・ジノンを陥れて攻撃し、その妻シキル・ハトンを奪って自らの妻とし、ボルフ・ジノンとシキル・ハトンの息子バト・モンケ(後のダヤン・ハーン)を手元に置いていた。その後、ボルフ・ジノンはヨンシエブのケリュー、チャガーン、テムル、モンケ、ハラ・バダイらによって殺されてしまい、後世ボルフ・ジノンの殺害は「ヨンシエブの罪科」と評されている。マンドゥールン・ハーンが亡くなると、イスマイルはボルフ・ジノンの息子で義子のバト・モンケを擁立し、自らは太師(タイシ)と称してモンゴリアの実権を握っていたが、やがてダヤン・ハーンとも対立するようになった。ダヤン・ハーンの攻撃を受けたイスマイルは西方コムル方面に逃れ、現地でケシク・オロク率いるオイラト部族連合と組んだものの、遂にはダヤン・ハーンの追討軍によって殺された。一説にはこの戦いを通じて「ヨンシエブ」と「ハラチン」「アスト」が分割されたとも言う。 イスマイル・タイシの死後、「大ヨンシエブ」はやはり西方出身で、エセンの孫とも言われるイブラヒムが受け継いだ。イブラヒムはダヤン・ハーンの自身の息子に各部族を率いさせようとする政策に不満を感じ、オルドス部のマンドライ・アカラクと手を組み、ダヤン・ハーンより派遣されてきたその次子ウルス・ボラトを殺害してダヤン・ハーンに反旗を翻した。これを受けてダヤン・ハーンは大軍を招集し、ダラン・テリグンの戦いによってイブラヒム・マンドライの連合軍を撃破した。大打撃を被ったイブラヒムは青海に逃れ、残されたヨンシエブ部の部衆は完全にダヤン・ハーンの統制下に置かれた。この戦いを通じてダヤン・ハーンに敵対的な異姓諸侯の多くは姿を消し、いわゆる「ダヤン・ハーンの六トゥメン(左翼のチャハル・ハルハ・ウリヤンハン、右翼のオルドス・トゥメト・ヨンシエブ)」という体制が定まった。
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