タウング王朝の支配下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:56 UTC 版)
「ラオスの歴史」の記事における「タウング王朝の支配下」の解説
タウング王朝の支配の下、セタティラートの弟であるウォーラ・ウォンサー1世(ドイツ語版)(在位:1575–1579)が新しい国王に任命されたが、1579年に住民の反乱蜂起が起こると、ウォーラ・ウォンサー1世は筏でビルマへ逃亡を図ったが、筏が座礁し溺死している。その後、タウング王朝はラーオ族にラーンサーン王国の統治を任せたが、セーン・スリンタルサイ(2回目の在位:1580–1582)、en:Nakhon Noi(在位:1582)が、いずれも短期に終わり、タウング王朝による直轄統治(期間:1582–1591)へと切り替えていった。タウング王朝の統治は住民への重い課税が影響し、ラーオ族がさらに南下せざるをえないきっかけとなり、この時期にラーオ族の居住範囲がチャンパーサックへと拡大している。 1591年、タウング王朝に監禁されていたノー・ムアン(2回目の在位:1591–1596)が釈放され、ラーンサーン王国の新しい国王に任命されると、王国の治安は回復し、安定を取り戻したが、ノー・ムアンは在位7年、1598年に27歳という若さで死去してしまった。
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