ジャハーンギールとホージャ復古運動
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「新疆の歴史」の記事における「ジャハーンギールとホージャ復古運動」の解説
1814年には、カシュガル・ホージャ家のブルハーン・アッディーンの孫であるジャハーンギールが、利権確保の為にホージャ復活を掲げ、侵略を進めた。ホージャとはスーフィーのナクシュバンディー教団に由来し、17世紀頃よりタリム・ジュンガル盆地でも指導者の称号として用いられ、ジャハーンギールはアク・タグルク(白山党)のホージャであった。コーカンド・ハン国のムハンマド・アリー・ハーンも、ジャハンギールを支援し、カシュガル、ヤルカンド(現在の新疆ウイグル自治区莎車県)を占領し、清軍を放逐した。その後、コーカンド・清両国の交渉でコーカンドに与える権利の交換条件として反乱を煽ったジャハーンギールは逮捕されるが、1826年5月、フェルガナ盆地の地震をきっかけに脱獄し、私兵を引き連れカシュガルを拠点に、ヤルカンド、イェンギサール、ホータンを占領する。清はイリ将軍の長齢(チャンリン)、陝甘総督の楊遇春、山東巡撫ウルンガ(武隆阿)、拡粛提督の斉慎に鎮圧を命じ、1827年のアクスでの戦いでジャハーンギール軍は敗北、1828年にジャハーンギールは北京で道光帝に処刑された。当初ジャハンギールを支援したコーカンド国は、前記交渉後新疆内のコーカンド人に対する権利と引き換えに手を引いた。 ジャハーンギールの乱以降、清は禁輸政策をとる。これに対して1830年にコーカンド・ハン国はカシュガルを占領するが、清は戦乱をおそれ、禁輸令を緩和する。1832年にコーカンドのムハンマド・アリー・ハーンはイリ将軍に対して、ジャハーンギールを支持した住民の恩赦、没収された財産の返還、新疆のコーカンド人に対する支配権、新疆でのコーカンド商人への徴税権の承認を求めた。道光帝は激怒するが、コーカンドの4要求のうち後の2つを認めた。 コーカンド・ハン国は、清朝から新疆でのコーカンド商人の保護だけでなく、新疆に居住するコーカンド商人からの徴税権と新疆における交易独占権を与えられた。 1840年からのアヘン戦争によって清が国力を衰退させると、新疆駐屯軍の経費も不足し、駐屯軍は北京政府に窮状を訴えるが、朝廷は現地でまかなえと返答するばかりであった。イリ将軍府(新疆政府)は臨時課税を行うが、これに反発して、ムスリム住民の反乱(回民蜂起)が勃発する。 1850年から1864年にかけて太平天国の乱が中国全土で広がった。1856年にはアロー戦争も勃発した。 1852年、ジャハーンギールの子ワリー・ハンがカシュガルに侵入し、1857年には同地の占領に成功する。しかし、1850年頃よりロシアの南下がはじまり、1865年、コーカンド・ハン国はロシア軍の侵攻を受ける。事実上の支配者のアリム・クーリーが戦死し、ワリー・ハンはカシュガルのヤクブ・ベクのもとへと逃れる。
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