ジャハーンギール・ホージャの乱
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「ヤクブ・ベクの乱」の記事における「ジャハーンギール・ホージャの乱」の解説
しかし、1820年には、コーカンド・ハン国のジャハーンギールが、清朝による統治に反発し、ホージャ復活を訴え、反乱を起こす。ホージャとはスーフィーのナクシュバンディー教団に由来し、17世紀頃から東トルキスタン地域のウイグル人の指導者の称号で、ジャハーンギールはアク・タグルク (アク・タク、アーファーキーヤとも。白山党)のホージャであった。 清朝は、コーカンド・ハン国と交渉し、ジャハーンギールの幽閉に成功するが、のち脱出し、カシュガルに入り、活動を行う。ジャハーンギールは支持者とともにカシュガル、ヤルカンド、イェンギサール、ホータンを占領する。清はイリ将軍の長齢(チャンリン)、陝甘総督の楊遇春、山東巡撫ウルンガ(武隆阿)、拡粛提督の斉慎に鎮圧を命じ、1827年のアクスでの戦いでジャハーンギール軍は敗北し、1828年にジャハーンギール・ホージャは捕えられ、北京で道光帝によって処刑された。 1852年、ジャハーンギールの子ワリー・ハンがカシュガルに侵入し、1857年には同地の占領に成功する。なお、ワリー・ハンはドイツの探検家アドルフ・シュラーギントヴァイトを清のスパイとみなして処刑したことでも知られる。 こうしたアク・タグルク(白山党)の反乱をうけて、清は東トルキスタン地域に軍5万を駐屯させ、九つの砦を築く。イリ駐屯軍の財政は、中央政府の助成に依存していたが、1840年からのアヘン戦争、1850年から1864年にかけて中国全土で広がった太平天国の乱、1856年のアロー戦争などのため、中央政府からの助成は見込めなくなり、イリ将軍府は現地からの税の増税を行うが、これが住民の不満をまねく。
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