住民の増加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 08:33 UTC 版)
1794年までのハイベリーは、ハイベリー・ハウスとハイベリー・ヒル・ハウス、ハイベリー・バーン、ハイベリー・テラスの門付きテラス、ハイベリー・プレースで構成されており、いずれもジョン・ドーズが貸し出した土地に建てられていた。ハイベリー地区はこのスタイルを守るつもりだったようで、その証拠にセント・ポールズ・ロード / ボールズ・ポンド・ロードとセブン・シスターズ・ロードの間に、広さ250エーカー (1.0 km2)の公園「アルバート・パーク」を建設する計画が持ち上がっていた。代わりに、現在のハイベリー・フィールズにあたる27.5エーカー (111,000 m2) の土地が1869年に保存された。この地区には、115エーカー (465,000 m2) のフィンズベリー・パーク(英: Finsbury Park)が作られ、残りの地区は開発された。 地区開発の大半は2つのフェーズで進行した。1870年代までに多くのイタリア風ヴィラが建てられ、多くはハイベリーの南側に集中した。続いて、家々が密集して建てられ開発が進んだ。多くはテラスハウスで、主にハイベリーの北側に建設された。1918年まで空き地への家屋建設が進んだが、それ以降は第二次世界大戦が終わるまでほとんど変化がなかった。 1920年代には、キリスト教住民の礼拝のため場所が必要となり、1920年、ケルロス・ロード(英: Kelross Road)に聖ジャンヌ・ダルク教会(英: St Joan of Arc's church、英語読み転記:聖ジョアン・オブ・アルク教会)が開かれた。この教会は、列聖されたジャンヌ・ダルクの名を冠した最初の教会と考えられる。教会はすぐに発展したが、戦後のカトリック信者の移住に伴って、より大きく新しい教会が必要となった。ハイベリー・パーク(ケルロス・ロードの近隣)に建設された新しい教会にもジャンヌ・ダルクの名前が冠され、1962年9月23日に正式に開設された。 ハイベリーはザ・ブリッツ(ロンドン大空襲)で爆撃を受け、V1飛行爆弾の爆撃も受けている。1944年6月27日、V1飛行爆弾はハイベリー・コーナーを吹き飛ばし、26人が死亡、150人が負傷した。ハイベリー・コーナーには印象的な駅・ホテルがあり、この攻撃で被害を受けたものの、メインの建物は1960年代にヴィクトリア線が引かれて取り壊されるまで使用され続けた。元々の西へ延びるプラットフォームはハロウェイ・ロードの反対側に保存され、元々のエントランスは一部が現在の駅のエントランス左側に保存されている。この出来事を記念する赤いプラークが、建物壁のラウンドアバウトを見渡せる位置に設置されている。 第二次世界大戦後ハイベリー地区の大規模改築が行われ、爆撃を受けた建物を取り壊して新しい公営住宅が建てられた。近代的でなかったヴィラには、より多くの公営住宅を建てるため取り壊されたものもあったが、一部は保存のため指定文化財とされた。1980年代初頭の資産価格高騰を受けて、この地区にもジェントリフィケーションの波が訪れ、カウンシルは大邸宅の一部を、ヴィラを修復できるだけの資産を持つ個人開発者たちに売却し始めた。例えば、2004年にイズリントン・カウンシルは、ハイベリー・ニュー・パークにある4つの建物を、それぞれ100万ポンドで開発者たちに売却している。 1997年には、ハイベリー・コミュニティ・アソシエーション (HCA) が設立された。以来HCAは、ハイベリーとロウアー・ハロウェイ、フィンズベリー・パークの住民や店舗を代表している。HCAは、ロンドンの北イズリントンに位置するこの地区に関して、住環境・労働環境の様々な面からキャンペーンを展開している。
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