小さな祖国の詩人
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「セヴェリン・ゴシチンスキ」の記事における「小さな祖国の詩人」の解説
セヴェリン・ゴシチンスキは土着のロマン主義を創り出し、小さな祖国(ポーランド語版)の文化の特徴に消し難き印を押された者たちの一人である。詩人はウクライナとガリツィアで育ったが、そこは彼がかなり早いうちに教育を修めてから5年生で人文学校を出て28歳まで滞在し、非正規の手段で知識を獲得しつつ、幾度となく老人たちの話に耳を傾けながら、文学に含まれる高等文化のみならず地方の民俗をも知っていったところであった。ゴシチンスキの作品の大部分は『カニュフ城』を筆頭に、彼が子供や若者として見知った土地、その歴史、文化、そして住民の様子に直接的であれそうでなかれ関係するものである。少なくともミツキェヴィチの場合、ヴィルノ地方(英語版)(現在のリトアニア、ヴィリニュスの一帯)の民俗文化(ポーランド語版)の要素は、彼自身の世界や大都市からかかけ離れ、民族的で零細貴族(ポーランド語版)的、時に異教的ですらある理解や解釈の方法をロマン主義的世界観に編み込む可能性を通すことで、ロマン主義的な詩学(英語版)を豊かにさせるモチーフにすぎず、これはゴシチンスキの作風とは正反対のものである。それは自身の非合理主義(英語版)・革命主義・国民文化の財産への敬意を伴うロマン主義の潮流であり、創作者にウクライナ、ガリツィア、そしてカルパティア山脈にタトラ山脈をも含む近隣の土地の情勢をロマン主義的な詩学の枠組みの中で把握する可能性を与えたのである。 ゴシチンスキの創作はいわゆるウクライナ派に数えられるものである。この流派においてはウクライナの土地や文化への愛着の反映が強い。しかし『カニュフ城』の作者の創作と姿勢にかくも強い影響を及ぼしたこの小さな祖国は、荒野を越えてガリツィア全体を覆うものである。彼はポーランド文学においてゴルツェ連峰(Gorce)を記述し、ウォプシュナ(Łopuszna)のレオン・テトマイェル(カジミェシュ・プシェルヴァ=テトマイェル Kazimierz Przerwa-Tetmajerの親類) の館(英語版)に客として滞在中ゴルツェ山脈を訪れた第一人者であった。ゴシチンスキはまた、ポーランド文学に初めてタトラ山脈のモチーフを導入した者たちの一人でもあった(Dziennik podróży do Tatrów, Oda. Powieść tatrzańska z czasów Bolesława Chrobrego〈タトラ山脈旅行日記、頌歌。ボレスワフ勇敢王の治世からのタトラ小説〉)。ゴシチンスキは山を行軍した時、若きカジミェシュ・プシェルヴァ=テトマイェルの後見人を務めた。伝説によると、左記の行軍の一つの際、彼は当時10歳にも満たなかったこの将来の詩人にしてデカダンティストの少年が崖から転落しそうになったところを救うこととなったとされる。テトマイェルはこの時の救出劇を Stara książka i stara pieśń(〈古い本と古い唄〉; Na skalnym Podhalu〈岩のポドハレへ〉シリーズの談話の一つ)という談話で以下のように書き、言及している。「私が9歳の時、彼はストロンジスカの谷(Strążyska)で飛び込もうとしていた私を干上がった小川の河床から外れたところから捕まえたが、そこで私はこっぱ微塵に無に帰していたことだろう; 彼が私をその後詩作へと押しやったのである」。プシェルヴァ=テトマイェルはゴシチンスキの大切な役割を、プシェルヴァ=テトマイェルを詩のために発見した者としても注記しているのである。
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