大正・昭和戦前期とは? わかりやすく解説

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大正・昭和戦前期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:58 UTC 版)

中島町 (広島市)」の記事における「大正・昭和戦前期」の解説

中島町界隈繁栄いくぶん翳り生じるようになるのは、大正期以降である。これより先、1894年山陽鉄道(現・JR西日本山陽本線開通で、市域全体から見ると東のはずれの位置にある松原町広島駅開業、ついで1912年、旧広島城外壕埋め立て広島駅相生橋東詰(現在の原爆ドーム前電停当時は「櫓下」と呼ばれた)を結ぶ市内電車線(現・広島電鉄)が開通すると、市内メインストリート電車通り沿って次第に東に移るようになり、本通電車通り以東)、紙屋町八丁堀などが新たな繁華街として台頭した。さらに1921年八丁堀の南に新天地歓楽街(現・中区新天地)が開発され結果市街地の中で中島町界隈商業娯楽地区として占め地位次第低下していくこととなった。そのため、この地区置かれていた主要金融機関本店支店昭和初期までに紙屋町・八丁堀方面新店舗へと次第移転していった。また中島新町市役所昭和初期市域拡大にともない手狭になることが予想されたため、1928年現在地国泰寺町新庁舎移転した。しかし中島地区映画洋食などモダンな文化発信する街としてはなお健在であり、古い歴史を持つ広島有数盛り場として栄えた戦前期広島繁華街象徴するすずらん灯」は中島本通にも設置され夜の街並み彩った。 しかし第二次世界大戦期入り経済統制によって市内盛り場全般寂れるうになると、この地区でもほとんどの喫茶店映画館営業困難になり閉店よぎなくされた。さらに戦争末期には空襲予想されたため住民の疎開が相次ぎ、また地区南端天神町南組および木挽町中島新町の南半)では防災のための強制建物疎開実施されおおかたの建造物取り壊されていた(この実施区域第二次世界大戦後戦災復興計画により平和大通りとなった)。

※この「大正・昭和戦前期」の解説は、「中島町 (広島市)」の解説の一部です。
「大正・昭和戦前期」を含む「中島町 (広島市)」の記事については、「中島町 (広島市)」の概要を参照ください。

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