建設史
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笠置ダムおよび笠置発電所は、大正から昭和戦前期にかけての大手電力会社大同電力によって建設された。 大同電力が岐阜県内において木曽川の水利権を取得したのは、前身木曽電気興業時代の1920年(大正9年)3月のことである。「笠置」地点はこのときに許可を受けた5地点のうちの一つで、当初はダムを持たない水路式発電所の計画であったが、1924年(大正13年)に上流側において完成した大井発電所がダム(大井ダム)を持つダム式発電所として開発されたため、この大井ダムとの連係調整の必要上笠置地点もダム式によって開発することとなり、1928年(昭和3年)10月にその変更許可を受けた。 着工は1934年(昭和9年)11月。大同電力としては1926年(大正15年)の落合発電所完成以来久しぶりの新規開発工事であった。工事中、度重なる洪水被害によってダム仮締切設備の流出(1935年冬)、放水路仮締切の破損・発電所基礎の浸水(同年夏)など工事に支障が生じたが、昼夜兼行の工事によって予定よりも早い1936年(昭和11年)11月に竣工、27日に運転を開始した。笠置発電所建設にあわせ、大阪府の八尾へと至る長距離送電線「大阪第二送電線」が発電所まで延長された。
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兼山ダム・兼山発電所は、大井ダム・大井発電所をはじめとする木曽川の水力発電所を建設した大正・昭和戦前期の大手電力会社大同電力によって構想された。 大同電力が兼山ダムの周辺にて水利権を取得したのは、前身木曽電気興業時代の1920年(大正9年)3月のことである。地点名は「錦津」「今渡」の2つで、当初は双方とも水路式発電所の計画であったが、複数回の計画見直しでダムを伴う「丸山」「兼山」「今渡」の3発電所へと再編。うち兼山地点については1938年(昭和13年)9月に発電出力3万7100キロワットとして変更許可を得た。翌1939年(昭和14年)4月1日、電力国家管理の担い手として国策電力会社日本発送電が発足し、出力5000キロワット超の新規水力発電設備を同社が引き受けることとなった。兼山発電所の建設計画も大同電力から日本発送電へと引き継がれ、同年5月1日建設所の開設とともに兼山ダム・発電所の工事が始まった。 事前の準備工事と地理的条件から工事は順調に進み、日中戦争の長期化に伴う資材・労力不足の影響や、度重なる洪水被害があったものの、ダムについては1941年(昭和16年)末にほとんど完成した。しかしながらダムゲートや取水口の制水門が、資材不足とメーカーの日立造船が造船事業で多忙であった関係で納入が遅れ、未完成のままであった。また三菱電機が製作中の水車発電機についても、主軸をアメリカ合衆国に発注していたが工作機械輸出禁止措置で輸入できなくなり、代替でドイツへ発注したがこれも独ソ戦開戦で届かなくなって、やむなく自社で製作する、という経緯があって1943年(昭和18年)2月まで納入がずれ込んだ。 1943年3月、計画のダムゲート14門・取水ゲート6門のうちとりあえずダムゲート6門・取水ゲート2門を取り付け発電機1台を稼働、夏の渇水期において5600キロワットを臨時発電するという方針が固められた。未完成部分をコンクリートでかさ上げする仮堰堤工事とゲート設置工事は同年7月28日に完成。ダムの仮湛水と試運転を経て8月16日より兼山発電所は送電を開始した。10月17日には2台目の発電機も完成して出力は1万1200キロワットとなった。12月になりダムが竣工し、発電所出力は2万4800キロワットへ増強。3台目の発電機は他の発電所へ転用する議論もあったが1944年(昭和19年)3月1日に据付完了、4日に竣工検査が終了して兼山発電所は出力3万7100キロワットの水力発電所として全面的に竣工するに至った。
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建設史
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1872年、ドイツ鉄道建設会社 (Deutsche Eisenbahnbaugesellschaft) が「市街鉄道 (Stadtbahn)」の建設を申請した。これは当時のフランクフルター駅(現在の東駅)からシャルロッテンブルク駅を経てポツダムに至るものであった。1873年にはプロイセン王国、私営のベルリン-ポツダム鉄道(ドイツ語版)、マクデブルク-ハルバーシュタット鉄道(ドイツ語版)、ベルリン-ハンブルク鉄道(ドイツ語版)が参画して、ドイツ鉄道建設会社とともに「ベルリン都市鉄道会社 (Berliner Stadteisenbahngesellschaft)」が設立された。 市街線の建設は1875年に開始された。3年後、ドイツ鉄道建設会社は支払不能に陥った。その後、1878年にプロイセン王国が建設費用とベルリン市街線の運営を引き継いだ。資金面で参画したのは、退任した4人の共同経営者と、この新路線に接続する鉄道会社であった。プロイセン国家が参画したのも、対仏戦の容易化を望む大参謀本部の思惑があった。 1878年7月15日に建設指揮は、エルンスト・ディルクゼン(ドイツ語版)率いる新設の王立ベルリン都市鉄道管理局 (Königliche Direktion der Berliner Stadteisenbahn) が引き継いだ。管轄官庁は当初はプロイセン商務省(ドイツ語版)、後にはこれから分離した工部省(ドイツ語版)であった。 1882年2月6日、公式開通日の前日、皇帝ヴィルヘルム1世は特別列車でこの区間に乗車して、途中の全駅を視察した。1882年2月7日には市内交通線が開通し、5月15日には長距離線が開通した。建設費(用地取得費を含む)は1 km当たり500万マルク(現在の価値に換算すると1 km当たり約3,500万ユーロ)に達した。
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