建設史とは? わかりやすく解説

建設史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 06:45 UTC 版)

笠置ダム」の記事における「建設史」の解説

笠置ダムおよび笠置発電所は、大正から昭和戦前期にかけての大手電力会社大同電力によって建設された。 大同電力岐阜県内において木曽川水利権取得したのは、前身木曽電気興業時代1920年大正9年3月のことである。「笠置地点はこのときに許可受けた5地点のうちの一つで、当初ダム持たない水路式発電所の計画であったが、1924年大正13年)に上流側において完成した大井発電所ダム大井ダム)を持つダム式発電所として開発されたため、この大井ダムとの連係調整の必要上笠地点ダム式によって開発することとなり、1928年昭和3年10月にその変更許可受けた着工1934年昭和9年11月大同電力としては1926年大正15年)の落合発電所完成以来久しぶり新規開発工事であった工事中度重なる洪水被害によってダム締切設備流出1935年冬)、放水路締切破損発電所基礎浸水同年夏)など工事支障生じたが、昼夜兼行工事によって予定よりも早い1936年昭和11年11月竣工27日に運転を開始した笠置発電所建設にあわせ、大阪府八尾へと至る長距離送電線大阪第二送電線」が発電所まで延長された。

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建設史

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兼山ダム」の記事における「建設史」の解説

兼山ダム兼山発電所は、大井ダム大井発電所はじめとする木曽川水力発電所建設した大正・昭和戦前期大手電力会社大同電力によって構想された。 大同電力兼山ダム周辺にて水利権取得したのは、前身木曽電気興業時代1920年大正9年3月のことである。地点名は「錦津」「今渡」の2つで、当初双方とも水路式発電所の計画であったが、複数回の計画見直しダムを伴う「丸山」「兼山」「今渡」の3発電所へと再編。うち兼山地点については1938年昭和13年9月発電出力37100キロワットとして変更許可得た。翌1939年昭和14年4月1日電力国家管理担い手として国策電力会社日本発送電発足し出力5000キロワット超の新規水力発電設備同社引き受けることとなった兼山発電所建設計画大同電力から日本発送電へと引き継がれ同年5月1日建設所の開設とともに兼山ダム発電所工事始まった事前の準備工事地理的条件から工事順調に進み日中戦争長期化に伴う資材労力不足の影響や、度重なる洪水被害があったものの、ダムについては1941年昭和16年)末にほとんど完成したしかしながらダムゲートや取水口の制水門が、資材不足とメーカー日立造船造船事業多忙であった関係で納入が遅れ、未完成のままであった。また三菱電機が製作中水車発電機についても、主軸アメリカ合衆国発注していたが工作機械輸出禁止措置輸入できなくなり代替ドイツへ発注したがこれも独ソ戦開戦で届かなくなってやむなく自社製作する、という経緯があって1943年昭和18年2月まで納入ずれ込んだ1943年3月計画のダムゲート14門・取水ゲート6門のうちとりあえずダムゲート6門・取水ゲート2門を取り付け発電機1台を稼働、夏の渇水期において5600キロワット臨時発電するという方針固められた。未完成部分コンクリートかさ上げする仮堰堤工事ゲート設置工事同年7月28日完成ダムの仮湛水試運転経て8月16日より兼山発電所送電開始した10月17日には2台目発電機完成して出力1万1200キロワットとなった12月になりダム竣工し発電所出力は24800キロワット増強3台目発電機は他の発電所転用する議論もあったが1944年昭和19年3月1日据付完了4日竣工検査終了して兼山発電所出力37100キロワット水力発電所として全面的に竣工する至った

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 22:58 UTC 版)

ベルリン市街線」の記事における「建設史」の解説

1872年ドイツ鉄道建設会社 (Deutsche Eisenbahnbaugesellschaft) が「市街鉄道 (Stadtbahn)」の建設申請した。これは当時フランクフルター駅(現在の東駅)からシャルロッテンブルク駅経てポツダムに至るものであった1873年にはプロイセン王国私営ベルリン-ポツダム鉄道ドイツ語版)、マクデブルク-ハルバーシュタット鉄道ドイツ語版)、ベルリン-ハンブルク鉄道ドイツ語版)が参画して、ドイツ鉄道建設会社とともにベルリン都市鉄道会社 (Berliner Stadteisenbahngesellschaft)」が設立された。 市街線の建設1875年開始された。3年後ドイツ鉄道建設会社支払不能陥ったその後1878年プロイセン王国建設費用ベルリン市街線運営引き継いだ資金面参画したのは、退任した4人の共同経営者と、この新路線に接続する鉄道会社であったプロイセン国家参画したのも、対仏戦の容易化を望む大参本部思惑があった。 1878年7月15日建設指揮は、エルンスト・ディルクゼン(ドイツ語版率い新設王立ベルリン都市鉄道管理局 (Königliche Direktion der Berliner Stadteisenbahn) が引き継いだ管轄官庁当初プロイセン商務省ドイツ語版)、後にはこれから分離した工部省ドイツ語版であった1882年2月6日、公式開通日前日皇帝ヴィルヘルム1世特別列車でこの区間乗車して途中の全駅を視察した1882年2月7日には市内交通線が開通し5月15日には長距離線が開通した建設費用地取得費を含む)は1 km当たり500マルク現在の価値換算する1 km当たり約3,500ユーロ)に達した

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