建設反対沿線住民の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 09:28 UTC 版)
「名古屋市道鏡ヶ池線」の記事における「建設反対沿線住民の反応」の解説
鏡ヶ池線の使命は二つあって、一つは広小路通の交通負荷を鏡ヶ池線に分散させること、もう一つは2号東山線の名古屋ICへの直結ルートを確保することであった。いずれも当時増加しつつあった都市内交通の麻痺を解消することが狙いであったが、鏡ヶ池線の構想が提示された当時は四日市ぜんそくや水俣病に代表される公害問題が全国的に多発した時期にあたり、その結果、各地で公害問題に関心が向けられるに至った。さらに自動車が放つ騒音や排気ガス、高架構造であるところからの日照阻害の問題にも同様の関心が向けられることになり、新たな道路建設に対する人々の視線も厳しさを増すことになった。こうした世相から名古屋高速の建設は困難を極めたが、それでも既存道路の上に並行して建設することは新たな用地確保を抑えるメリットがあった。ところが鏡ヶ池線の場合は、一部区間を除いて道路そのものが存在せず、ただでさえ難しい都市高速の建設をなおさら困難にした。その一部の道路とて、幅員が8 mであるため、それを30 - 40 mに拡幅することから、やはり広範囲の用地確保が必要とされた。こうしたことから、鏡ヶ池線のほぼ全区間が用地買収の対象とされ、この先の住民説得に多大な困難が予想されると共に、立ち退かされる側の沿線住民の関心も高まることになった。住み慣れた閑静な住宅街に突如として広幅員の幹線道路と都市高速が出現し、そこを幾多の自動車が走り抜けることへの不安は高まる一方で、中でも住民の関心は次の2つに集約された。 東西幹線道路が敷設され、大量の通過交通が沿道になだれ込むことによる自動車公害への懸念 用地買収による退去後の生活不安 本山政雄は都市高速建設反対派の推薦を受けて名古屋市長に就任したものの、自動車需要が今後とも続くことから都市高速の建設を中止することは不可能であることを重々理解していた。それでも鏡ヶ池線の沿線住民は強硬な建設反対を唱え、本山は都市高速必要の現実と反対する沿線住民の間で板挟みとなった。住民の主張とは以下の内容であった。 住民の生活環境を破壊し、産業と車優先の都市高速道路計画案を認めないでほしい この計画は、生活環境保全や福祉優先を無視した産業・車優先の計画で、時代に逆行している 土地の代替地は、現在以上の環境の土地を斡旋せよ 今の計画は、盆地の住宅街に道路を持ち込む案でデタラメだ。 道路計画は通勤対策の抜本的解決にはならず、公害の無い地下鉄整備を優先するべき 住宅街や文教地区を縦断することで、自然破壊や住宅環境を破壊して勉学にも支障を与える など、おしなべて厳しい内容であると同時に、広範なデータを採取したうえで現実的な計画を図る行政の考えとの間に齟齬が見られる内容でもあった。 こうした住民側の声に耳を傾けるべく、本山は1973年9月に現地視察を行ったが、ここでも市によって決定された事項を市長権限で覆すことの難しさを否が応でも痛感させられることとなった。この時の住民対話の中で、市民擁護の立場で市長の座に収まった本山を前にして「住民の意見を尊重するという市長の公約を守ってほしい」と、本山の急所を突くような鋭い訴えがなされるも「できることとできないことがある」「苦しい立場を理解してほしい」と、逆に自らの窮状を住民に訴える一幕もあった。 結果的に現実的対応と住民救済を合わせる形で、四谷出入口付近(鏡池通4丁目)から広小路通までの接続部(東山通3丁目)の区間は廃止され、その付近の住民は退去を免れた。このことを名古屋市は、住民の犠牲を最小限に抑えたと説明した。結果的に本山の決断が鏡ヶ池線の使命を東西直結の幹線ルートから地域密着のローカル路線に変節させ、2号東山線を東名高速直結から高針終点へと導くことになった。現在、東名高速名古屋ICと2号東山線の連絡は、名二環4.1 km(普通車510円)を高針経由で大回りしなければならず、これも当時の世相と現実のはざまで苦慮した政治的対応による副産物であった。
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