建設地論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 05:44 UTC 版)
1970年、政府報告書はHobølに新空港を建設することを提言した。しかし同時にまだその時期でないとしたため、その地区は計画地として保留された。1970年代は中央党や労働党政権の政策によりノルウェー東部よりも地方への投資が優先されたため進捗がなかった。1980年代になり航空需要が増大し1988年までに国際線をすべてガーデモエンに移す必要が明らかになった。Hobølの計画地はすでに放棄されていたので、ガーデモエンに新空港を建設するか、Hurumに空港を建設するかが検討された。この時の報告書はガーデモエンの空軍基地の必要性を考慮していなかったため批判され、1988年に内閣はHurumを建設地とする方針を決定した。ところが1989年になるとHurumは気象条件が悪いという調査報告が出る。これには気象学者やパイロットたちから事実に反するという大規模な批判が出たものの、2つの政府委員会が調査した結果、いずれも調査に問題はないと結論した。かくして再びガーデモエンが候補地となり、1992年10月8日に法案が可決された。気象報告が操作されていると主張していた技術者Jan Fredrik Wiborgが、1994年にコペンハーゲンのホテルの窓から落ちて不審死を遂げるなど、法案が可決された後も議論は引き続いた。
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