笠原幸雄
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笠原 幸雄 | |
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生誕 | 1889年11月6日![]() |
死没 | 1988年1月2日(98歳没) |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1913 - 1945 |
最終階級 | ![]() |
笠原 幸雄(かさはら ゆきお、1889年(明治22年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月2日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。ロシア通の参謀として知られていた。功三級[1]。
略歴
仙台で陸軍三等主計正、笠原幸之助の長男として生まれる。本籍地は東京。東京府立一中、陸軍中央幼年学校予科、同校本科、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校卒業(22期)。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校卒業(恩賜、30期)[1]。
1937年(昭和12年)に参謀本部付、参謀本部初代ロシア課長、関東軍参謀副長を経て、翌年12月には参謀本部総務部長、1939年(昭和14年)9月、北支那方面軍参謀長として多田駿中将を補佐、1941年(昭和16年)3月、関東軍第3軍第12師団長。
1942年(昭和17年)8月、関東軍総参謀長として梅津美治郎大将、続いて山田乙三大将を補佐し、また補給監も兼務した。1945年(昭和20年)4月、自ら野戦指揮官を希望して上月良夫の後任として支那派遣軍第6方面軍第11軍司令官に着任、桂林や湖南省方面で展開した。
第11軍は、湘桂作戦発動の為に1944年(昭和19年)に新設され、10ヶ師団40万人の規模であった。また、「焼くな・殺すな・盗むな」のいわゆる「三戒」にて、一人も戦犯を出さずに本土に帰還できた。終戦ののちは湖南から九江へ移動、国府軍の璧岳大将と将来の日中友好を交わし合い、1946年(昭和21年)6月の上海から部隊が帰国するまで主に荒地の開墾にて自給自足の生活を送ることを許された。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]。
戦後は、日本郷友連盟理事長に就任。また、戸山ヶ原の陸軍近衛騎兵師団跡地に碑が残っている。
年譜
- 1929年(昭和4年)12月10日 - 駐ソ武官[1]
- 1932年(昭和7年)5月23日 - 参謀本部欧米課ロシア班長[1]
- 1933年(昭和8年)[1]
- 1934年(昭和9年)3月5日 - 近衛騎兵連隊長[1]
- 1936年(昭和11年)
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 1941年(昭和16年)8月1日 - 第12師団長[1]
- 1942年(昭和17年)8月1日 - 関東軍総参謀長兼補給監[1]
- 1945年(昭和20年)4月7日 - 第11軍司令官[1]
栄典
- 位階
- 1911年(明治44年)3月10日 - 正八位[3]
- 1914年(大正3年)2月10日 - 従七位[4]
- 1919年(大正8年)3月20日 - 正七位[5]
- 1924年(大正13年)5月15日 - 従六位[6]
- 1937年(昭和12年)9月1日 - 正五位[7]
- 勲章等
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 外山 1981, 273頁.
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
- ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。
- ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
- ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
- ^ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
- ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
- ^ 『官報』第1900号「彙報-陸海軍-学生退校」1918年12月3日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版。
- 秦郁彦『陸海軍総合事典』東京大学出版会。
- 『CD現代日本人名録 物故者編1901-2000』。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
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