中島正武とは? わかりやすく解説

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中島正武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/04 00:35 UTC 版)

中島 正武(なかじま まさたけ、1870年10月4日明治3年9月10日) - 1931年2月23日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

高知県土佐郡小高坂村(現・高知市)にて[1]、中島正篤の息子として生まれる。海南中学校陸軍幼年学校を経て、1890年7月、陸軍士官学校(1期)を卒業し、翌年3月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。日清戦争に出征。1899年12月、陸軍大学校(13期)を卒業した。

歩兵第3連隊中隊長参謀本部出仕、参謀本部員などを経て、日露戦争では大本営運輸通信長官部参謀であった。第1師団参謀、東京衛戍総督部参謀、歩兵第68連隊長、ロシア大使館付武官、参謀本部課長などを歴任し、1915年1月、陸軍少将に昇進した。

参謀本部付となり、第一次世界大戦観戦武官としてロシア軍に従軍。1916年の閑院宮載仁親王のロシア皇帝訪問の際には随員を務めた[2]。歩兵第30旅団長、参謀本部第2部長、ハルピン特務機関長、浦塩派遣軍参謀などを経て、1919年1月、陸軍中将となった。参謀本部第2部長、兼同総務部長、第2師団長、近衛師団長を歴任。1923年8月、待命となり、翌月、予備役に編入された。その後、賀陽宮宮務監督、日露協会会長を勤めた。

1931年、東京代々木の自邸にて死去。墓所は青山霊園[1]

栄典

位階
勲章等

家族親族

脚注

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  1. ^ a b 高知新聞社 1999, 556頁.
  2. ^ 1916年閑院宮載仁親王のロシア訪問―来露100年を記念してセルゲイ・チェルニャフスキー、東京大学史料編纂所研究紀要 第27号 2017年3月
  3. ^ 『官報』第2576叙任及辞令」1892年2月4日。
  4. ^ 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
  5. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  6. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854 

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