小林信男とは? わかりやすく解説

小林信男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/06 13:41 UTC 版)

小林 信男(こばやし のぶお、1888年10月21日 - 1951年10月16日) は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

大阪府出身。地主・小林清四郎の長男として生まれる。緑中学校陸軍中央幼年学校予科同校本科を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第17連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍野戦砲兵射撃学校(乙種学生)を卒業した。

1917年(大正6年)1月、野戦砲兵射撃学校教官となり、同校教導大隊中隊長、参謀本部付、第14師団参謀近衛師団参謀などを経て、1926年(大正15年)12月から翌年11月まで陸軍大学校専攻学生として学んだ。1927年(昭和2年)12月、陸軍野戦砲兵学校教官となり、砲兵監部員、野戦砲兵学校教官、砲兵監部員、陸士教官などを歴任し、1935年(昭和10年)8月、砲兵大佐に昇進し野戦砲兵学校教官に就任。支那駐屯砲兵連隊長、山砲兵第27連隊長などを経て、1938年(昭和13年)12月、陸軍少将に進級し野戦砲兵学校幹事となる。

1940年(昭和15年)3月、野戦重砲兵第2旅団長に就任し日中戦争に出征。1941年(昭和16年)8月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた。1942年(昭和17年)4月、第60師団長に親補され上海蘇州の治安警備を担当。1945年(昭和20年)6月、第54軍司令官となり、愛知県新城に在って本土決戦に備えていたが、交戦することなく終戦を迎えた。同年10月、予備役に編入された。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

栄典

位階
勲章

親族

  • 娘婿 今村中(陸軍中佐、戦死)

脚注

  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
  2. ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。
  3. ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
  4. ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
  5. ^ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
  6. ^ 『官報』第4280号「叙任及辞令」1941年4月16日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。




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