笠原康明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/27 08:14 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 藤左衛門尉、越前守 |
主君 | 北条氏康→北条氏政→北条氏直 |
氏族 | 笠原氏 |
父母 | 笠原信為 |
兄弟 | 笠原康勝 |
笠原 康明(かさはら やすあき、生没年不詳)は、戦国時代 から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。北条氏政の側近。北条家朱印状の奉者として活躍した。
生涯
康明は、弘治2年(1556年)4月から史料に見られ、官途名藤左衛門尉を称している[1]。
永禄2年(1559年)の役帳では、康明は伊豆国奈古谷、相模国東郡泉郷、武蔵国八朔の合計191貫180文を領している[1]。
康明は武蔵岩付領の国衆太田氏への取次(小指南)を務めた。永禄10年(1567年)9月、同領を支配していた太田氏資が三船山合戦で戦死したことにより、同領が接収されると、岩付城城代として北条氏繁が入り、康明はその領域支配を担当し、取り次ぐ、奉行人となった。天正3年(1575年)に康明は岩付領関係の北条家裁許朱印状に署判しており、岩付領に関する事柄に限り、北条家内で、評定衆も務めている[1]。
天正3年 - 5年ごろ(1575年 - 1578年ごろ)、康明は北条氏政の次男太田源五郎が岩付太田氏の名跡を継ぐと、その後見を務めている[1]。この時、康明は源五郎の入城をめぐって、氏繁と対立し、義絶状態になっている[2]。康明はこのころから受領名越前守を称している。康明は天正15年(1587年)2月ごろから上野国厩橋城に在城した[1]。
注釈
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