笠原信為とは? わかりやすく解説

笠原信為

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/10 04:13 UTC 版)

笠原 信為(かさはら のぶため、生年不詳 - 弘治3年7月8日1557年8月12日))は戦国時代武将相模戦国大名北条家の家臣。父は笠原信隆(のぶたか)。子に康勝、康明[注釈 1]、義為。孫に照重、広定。

人物

武蔵国橘樹郡小机城城代。大曾根城主。官途は越前守。文化的教養もあり、和歌・漢詩に精通して造詣が深かった。

北条早雲氏綱氏康の3代にわたって仕えた宿老で、北条氏綱の時代には五家老を務め配下の小机衆を率いて、重用された。

大永6年11月12日1526年12月15日)の鶴岡八幡宮の戦いの際に里見義豊によって鶴岡八幡宮が焼き討ちを受けたため、その再建のために造営総奉行を命じられると、同じく総奉行の大道寺盛昌、材木奉行の北条綱成や与力の間宮康俊蒔田城城主・吉良頼康とともに普請にあたっている。

また享禄2年(1529年)、早雲寺殿(北条早雲)の御茶湯料として熊野堂5貫文を雲松院に寄進している。

享禄4年(1531年)に小机領が北条為昌の管轄になった後も引き続き小机城代の地位は維持され、為昌の補佐役に任命された。天文11年(1542年)に為昌が死去した後、小机領の管轄は北条幻庵の管轄になるが、その下でも引き続いて城代の地位は維持されている[2]

天文15年(1546年)12月、所領の一部と家督を嫡子・康勝に譲って隠居する。

弘治3年(1557年)7月8日に死去した。ただし、6月8日7月4日)に死去とする説もある(『異本小田原記』)。法名は乾徳院殿雲松道慶庵主[3]

脚注

注釈

  1. ^ 藤左衛門尉は康明の通称であるが、康明を信為の子と見なすと活動時期が長すぎるとして藤左衛門尉を親子2代の名乗りで信為-藤左衛門尉某-康明とみる浅倉直美の説がある[1]

出典

  1. ^ 浅倉直美 著「側近く仕えて氏康を支えた家臣たち」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年、71頁。 
  2. ^ 黒田 2018, pp. 218–219.
  3. ^ 黒田 2018, p. 219.

参考文献


笠原信為

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 16:18 UTC 版)

神大寺」の記事における「笠原信為」の解説

笠原信為(-1557)は、戦国時代の武将北条氏綱仕えた人物小机城代となり、神大寺曹洞宗臥龍山雲松院)の開基となる。死後菅田の道慶谷戸において荼毘火葬)に付され神大寺葬られた。

※この「笠原信為」の解説は、「神大寺」の解説の一部です。
「笠原信為」を含む「神大寺」の記事については、「神大寺」の概要を参照ください。

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