笠原信為
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/22 13:30 UTC 版)
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笠原 信為(かさはら のぶため、生年不詳 - 弘治3年7月8日(1557年8月12日))は戦国時代の武将。相模の戦国大名北条家の家臣。初代の武蔵小机城城代。父は笠原信隆(のぶたか)。子に康勝、康明[注釈 1]、義為。神大寺(雲松院)の開基。
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| 時代 | 戦国時代 |
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 弘治3年7月8日 (1557年8月12日) |
| 官位 | 越前守 |
| 主君 | 伊勢盛時→北条氏綱 → 北条氏康 |
| 氏族 | 備中笠原氏(越前守家) |
| 父母 | 父:笠原信隆 |
| 子 | 康勝 、 康明、 義為 |
人物
武蔵国橘樹郡小机城の初代城代。官途は越前守。文化的教養もあり、和歌・漢詩に精通して造詣が深かった。伊豆衆21家の笠原綱信や笠原政晴ら美作守家は同族とみられる。
後北条氏の家臣である備中笠原氏は、笠原氏冬が京都伊勢氏の伊勢貞藤の家臣となり、その子である信隆が伊勢盛時(北条早雲)に従って駿河に下ったとされている。信隆の子である信為は、伊勢盛時、北条氏綱、氏康の3代にわたって宿老として仕え、北条氏綱の時代には北条五色備(五家老)の白備えの大将を務め、配下の小机衆を率いて、重用された。
大永6年11月12日(1526年12月15日)の鶴岡八幡宮の戦いの際に里見義豊によって鶴岡八幡宮が焼き討ちを受けたため、その再建のために造営総奉行を命じられると、同じく総奉行の大道寺盛昌、材木奉行の北条綱成や与力の間宮康俊、蒔田城城主・吉良頼康とともに普請にあたっている。
また享禄2年(1529年)、早雲寺殿(伊勢盛時)の御茶湯料として熊野堂5貫文を雲松院に寄進している。
享禄4年(1531年)に小机領が北条為昌の管轄になった後も引き続き小机城代の地位は維持され、為昌の補佐役に任命された。天文11年(1542年)に為昌が死去した後、小机領の管轄は北条幻庵の管轄になるが、その下でも引き続いて城代の地位は維持されている[4]。
天文15年(1546年)12月、所領の一部と家督を嫡子・康勝に譲って隠居する。
弘治3年(1557年)7月8日に死去した。ただし、6月8日(7月4日)に死去とする説もある(『異本小田原記』)。法名は乾徳院殿雲松道慶庵主[5]。菅田の道慶谷戸において荼毘(火葬)に付され、神大寺(後述)に葬られた。
神大寺(雲松院)
横浜市神奈川区神大寺の町名の由来は、戦国時代に小机城代の笠原信為が父信隆の追善供養のため、龍が潜むという言い伝えのある「龍池」があったとされるこの地に、「神大寺」を建てたことに由来する。寺は二代目住職の天叟順孝(てんそうじゅんこう)の代に火災に遭ったため小机に移り、これが現在の「雲松院」となった。その後、当地に寺は無くなったが、その寺号が地名として残ったと言い伝えられている。[6]神大寺のあった場所は現在も定かでなく、資料も発見されていないが、町の中央付近にある「塩嘗地蔵」(塩を供えるいぼ取り地蔵)のある辺りの畑から太平洋戦争中に「骨壷」と「六文銭」が地元農家によって発見された。戦時中の混乱の中でこの骨壷の行方が解らなくなったが、もし笠原氏のものであったとすれば、その辺りに存在したと推測できる。また、塩嘗地蔵は神大寺の門前にあたるという説もある。
脚注
注釈
出典
参考文献
笠原信為
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 16:18 UTC 版)
笠原信為(-1557)は、戦国時代の武将で北条氏綱に仕えた人物。小机城代となり、神大寺(曹洞宗臥龍山雲松院)の開基となる。死後、菅田の道慶谷戸において荼毘(火葬)に付され、神大寺に葬られた。
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